IIコリント4:7-18 IIコリント8『内なる人は日々新たにされる』2023/08/27 けんたろ

IIコリント 4:7-18
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
4:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。
4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。

前回は、私たち自身は土の器でしかない。しかし、私たちの内に輝く聖霊によって、私たちは主の光を帯びて生きるのだという話だった。
今回は、その続き。

① クリスチャンの人生に起こること
土の器に聖霊という宝を入れられた私たちにはどんなことが起こるだろう?

4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

これがクリスチャンの人生の中に起こること。
救いを受けることによって、私たちは豊かになり、災いから守られ、問題から解放されるのかと言えば、まったくそうではない。

私たちは四方八方から苦しめられ、当方に暮れ、迫害をされ、倒される。
なぜなら、私たちが生きるこの世界はまだ救われていないから。

しかし、それでも私たちは窮することはなく、行き詰ることもなく、見捨てられることも、滅びることもないと言う。
神さまが私たちとともにおられるというのは、そういうこと。
だから、私たちはどんな困難も、主にあって乗り越えることができる。

② 死といのち
ここから、パウロの手紙には「死」と「いのち」の対比が続けて描写されている。

4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。

これも、パウロがこの手紙の中で繰り返し語っているテーマの部分。
それは、「私」ではなく「キリスト」が生きるということ。
「土の器の中の宝」もこのテーマに即して語られたことだった。
他の手紙の中でも、古い私たちが十字架で死に、キリストとともに復活の命に生きるということが書かれていた。(ローマ6:6)

私ではなくキリストが生きるとはどういうことなのか?
具体的に言うと、例えば…
自分の中に憎む心があるところに、キリストにあって赦す道を選ぶこと。
自分の中にあきらめる心があるときに、キリストに信頼する道を選ぶこと。
その選択の一つ一つは、私たちが願うことではないかもしれないし、つらい、難しいと感じることもあるかもしれない。
私たちは、なぜ自分に死に、キリストに生きていただく必要があるのだろう?
パウロはそれを、このように表現している。

4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

③ 日々新しく
自分に死ぬことは、確かに簡単なことではない。
そこにはつらいと感じることも、難しいと感じることもあるだろう。
でも、その体験を繰り返す中で、私たちは変えられていく。

4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たち(特に日本人)は、つい「自分に死ぬこと」に意識を向けすぎてしまう傾向がある。
「自己否定」や、「自我を殺す」ということばかり考えて、それだけつらくなってしまう。
しかし、パウロがここで言うのは、「私たちではなくキリストが生きる」ということ。
私たちは、日々自分に死ぬことにはなるかもしれないけれど、それ以上に日々復活の命を得て、新しくされていく。

自分に死ぬということに関しても、あまりネガティブに考えないで欲しい。
自分を十字架につけて死ぬということは、自分の思いを捻じ曲げて赦したり愛したりするのではない。
自分の思いよりも、キリストの心に従うということ。
それは、逆風の中で歯を食いしばりながら前進していくという生き方から、神さまが起こしてくださる追い風に乗っかる生き方に変えられるということだ。

そこには、確かに時間がかかることもあるだろうけれど、多くの人たちが思い込んでいるほど大変なものではない。
日本のクリスチャンが、どうしてこんなにもしかめ面をしながら、不安の中で信仰生活を送ろうとするのか、理解しがたい。
変えられる瞬間は確かに大変なこともあるけれど、私たちは変えられた喜びの中を、さらに高みへ登っていくことができるのだ。

今、自分の願いや願望を叶え、古い自分にとどまることから手を放そう。
変化を恐れ、そこにこだわりを持って生きても、そこに得られるものは何もない。
しかし新しい命は、私たちに新しい人生を与え、私たちの人生に大きな喜びを与えるものなのだ。