IIコリント 5:1-10 IIコリント9 『幕屋として生きること』 2023/09/03 けんたろ

IIコリント 5:1-10
5:1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
5:3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
5:4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
5:5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
5:6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
5:7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
5:8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
この手紙の中で、パウロはコリントの人たちとの和解を計りながら、自分ではなくキリストが生きることの大切さを教えている。
それが、この手紙のもう一つのテーマでもある。

ここまでにパウロは、私たちが「キリストの光を受けて、栄光から栄光へとキリストの姿に変えられること」「私たちという土の器の中に、聖霊/福音という宝があること」そして前回は、「私たちが自分に死に、キリストの命に生きること」について語ってきた。
その話の流れの中に、今日の聖書箇所がある。

① 幕屋が壊れても
パウロは、幕屋と神殿の関係を例に、私たちの今の命と永遠の命について説明している。
皆さんは、「神殿」と聞いてどんなものを思い浮かべるだろう?
現代のキリスト教は神殿を建てないが、それは神殿に代わるものがすでにあるから。
では、現代にある神殿とは何か?

多くの人は、教会だと思うかもしれないが、それは聖書の真理から遠く離れている。
イエスさまが教えてくれたことは、私たちこそが主の霊を内在する神殿だということ。
神の霊を入れる器のことを、神殿と呼ぶから。
聖霊が私たちの内に住んでくださるのだから、私たち自身が神殿。

旧約聖書に記されている建物としての神殿は、通常ソロモン王によって建てられたもの。
きらびやかで、財力と権力の限りを尽くして作られた。
一方で「幕屋」は、出エジプトの時代、40年間荒野をさまよったイスラエルの民が、「神殿」の代わりにした、持ち運びできる布製の神殿。
いわば、テントのようなものだった。

パウロは、今の世を生きている間のこの体は、むしろ幕屋のようなものだと書いている。
それは一時的なものであり、布製なので長くは保たない。
幕屋の時代はやがて終わり、私たちはきらびやかな神殿として永遠に神とともに過ごすことになる。

② 幕屋として生きる
私たちがクリスチャンになった後も、地上にいる間は、布製の頼りない状態で生きることになる。
こんな不完全で、すぐに壊れ、問題ばかり起こってしまうような幕屋ではなく、早く、強固な神殿になれたらいいのにと私たちは願うかもしれない。
でも、幕屋として荒野をさまようこの期間も、私たちには大切な期間。
それは、私たちが自分の内に神さまからの新しいいのちがあることを自覚するための期間だから。

5:4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
5:5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
5:6a ですから、私たちはいつも心強いのです。

大切なのは、私たちの外側ではない。
幕屋か神殿か、布か石かが問題ではない。
大切なのは、光のない私たちを神さまが照らし出してくださること。
土の器でしかない私たちの内に、聖霊という宝があること。
いのちのない私たちに、主がいのちを与えてくださるということ。
そこには大きな喜びがあり、平安がある。
それが、クリスチャンである私たちに与えられた特権である。

③ 見えなくても信仰によって
私たちが地上にいて、幕屋としての生活を送る限り、私たちは完全に神さまと一体になるわけではない。
人によって感度も違うので、神さまの声を頻繁に聞く人もいれば、まったくピンとこないという人もいるだろう。
「神さまの声が聞こえた」と思っても、間違えてしまうことも少なくない。
そうすると、神さまとの関係なんて本当に築けるのだろうかと自信もなくなるだろう。
私たちが地上にいる限り、肉体に縛られている私たちは、神さまとの一体感を完全に感じるということはないのかもしれない。
私たちはただ、主とともに生きているという信仰によって歩んでいるのだ。

クリスチャンになったのに、神さまとともに生きているという実感が伴わないからと言って絶望はしないで欲しい。
その喜びを体験できるに越したことはないが、大切なのはその体験や感覚以上に、主がともにおられるという事実そのものなのだから。

5:6bただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
5:7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。

私たちが、やがて肉体から解放されるとき、私たちは文字通り神さまと顔と顔を合わせる時がくる。

パウロが第一コリントでも書いていた通りだ。

Ⅰコリ 13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

慌てることなく、神さまのことをゆっくり知っていけばいい。
少しずつ、聖書を通して神さまのことを知り、祈りを通して語っていけばいい。
しかし、諦めることなく、求め続け、探し続け、扉をたたき続けることだ。
神さまと対話することは、それ自体がうらしいことなのだから。