IIコリント 5:8-15 IIコリント10 『キリストの愛に捕らえられる』2023/09/10 けんたろ

IIコリント 5:9-15
5:9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
5:11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
5:12 私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。
5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
この手紙の中で、パウロはコリントの人たちとの和解を計りながら、自分ではなくキリストが生きることの大切さを教えてきた。

・私たちが「キリストの光を受けて、栄光から栄光へとキリストの姿に変えられること」
・「私たちという土の器の中に、聖霊/福音という宝があること」そして、
・「私たちが自分に死に、キリストの命に生きること」について語ってきた。

前回は、私たちが生きている間は幕屋のように仮のからだだけれど、やがて神殿としての永遠のからだが与えられるときが来るという話。
この話に関して、パウロはこのように締めくくっている。

5:9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

① さばきの座
続けて、パウロは死後のことについてこのように書いている。

5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

私たちはみんな、善人であろうが悪人であろうが、また神を信じていようが信じていまいが、「キリストのさばきの座」の前に立つことになる。

5:11a そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。

だから、私たちは福音を宣べ伝え、一人でも多くの人たちがイエスさまの元に行くことができるように、神さまと繋がることができるように説得する。

ここでの注意点は、「行いに応じて」という言葉に引っ張られて「行いを正そう」としないこと。
これまでの話と切り離してこの箇所だけで理解しようとすると、行いを正さなければならないと勘違いしてしまう。
大切なのは、表面的な行いの話ではなく、内面であり、神さまとの関係性である。
神さまの光を反射し、土の器に宝を宿し、自分に死んでキリストに生きること。
それによって、私たちの内側から神さまに従う心が生まれ、御心にかなった行いをするようになる。
その順番を間違えると、イエスさまの十字架は意味を失ってしまう。

② あなたたちが私のことを誇るため
パウロはこのように続けている。

5:11b 私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

パウロの心が神さまとともにあり、神さまに聞き、従っていることを神さまは知っていてくださるという確信を、パウロは持っている。
そのように、パウロの心が神さまとともにあることを、あなたたちも知ってほしいと、パウロは願っている。

パウロは、なぜわざわざそのようなことを言うのか?
反パウロ派になりつつあるコリントのクリスチャンたちを、自分に引き戻すためか?
信頼を回復し、コリントの教会に媚びを売りたかったのだろうか? そうではない。

5:12 私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。

これは、コリントのクリスチャンたちに対するパウロの信頼でもある。
「あなたを取り戻すためではない。あなたが私に反対する人たちに対して、自信を持ってNOと言えるために、私が主とともにあることを知ってほしいのだ」とパウロは言っているのだ。

③ キリストの愛に捕らえられ
主とともに生き、主に従って生きるとき、私たちは他の人たちが自分をどう見るかなど関係がないものになってくる。
「神さまが私をどう見るか」の方が、それよりもずっと重要なことだからだ。
場合によっては正気を失っているように見えるかもしれないが、そうだとしたらそれは神さまのために神さまに従った結果だ。
もし、正気であるように見えるなら、それはあなたたちのために神さまに従った結果だ。

5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

もはや、パウロにとって人からどう見えるかは関係がない。
ただ、神さまに従う先に、全てのことが見えてくるのだから。

5:14a というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。

「キリストの愛に捕らえられた」これが、私たちクリスチャンの行動原理。
死と裁きへの恐れ、実は救われていないのではないかという不安、義務感、あるいは達成感、高揚感、それらはすべて、私たちが従うべき行動原理ではない。
そのようなものが行動原理となっているなら、私たちは気を付けなければならない。
それらはすべて、私たちを縛り、閉じ込め、苦しめるものだから。

この機会に、私たちの中にある心の動機を探ってみよう。
私たちはなぜ、クリスチャンとして生きているのか?
私たちはなぜ、福音を伝え、神さまに愛される行動をしようと思うのか?
キリストの愛以外の動機がそこにあることがわかったら、キリストに立ち返ろう。
自分がどれほど愛され、喜ばれた存在なのかを思い出そう。
そして、いつでも主がともにいてくださることを思い出そうではないか。