IIコリント 5:14-21 IIコリント11『だれでもキリストの内にあるなら』2023/09/17 けんたろ

IIコリント 5:14-21
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
この手紙の中で、パウロはコリントの人たちとの和解を計りながら、自分ではなくキリストが生きることの大切さを教えてきた。

・私たちが「キリストの光を受けて、栄光から栄光へとキリストの姿に変えられること」
・「私たちという土の器の中に、聖霊/福音という宝があること」そして、
・「私たちが自分に死に、キリストの命に生きること」について語ってきた。

前回は、私たちの動機がどこにあるかという話で締めくくった。
私たちを動かすのは、恐れでも、不安でも、義務感でも、達成感でも、高揚感でもなく、キリストの愛に捕らえられているからだということ。
これは、私たちクリスチャンにとって大切なことである。

① 死んでよみがえった方のために生きる
今日は、その言葉の続きのところから話していく。
本来は別の節や、別の段落にするべきところではないかと思う。
この節の前半の言葉にインパクトがあるので、後半は抜けてしまいがちだが、この後の繋がる重要な部分である。

5:14b私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

「『一人の人』であるイエス・キリストが全ての人のために死んだ」ということは、「神の目には、全ての人が死んだ」のと同じこと。
だから、それを受け取る人々は、罪ののろいからすでに解放されていることになる。
でも、ここで表されているのはそれだけではない。
私たち自身もまた、自分自身を十字架につけて死んだのだ。
パウロはそのことを繰り返し、手紙の中に書いている。

ガラ 5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

十字架で死んだ私たちは、もはや自分のためではなく、キリストのために生きるのだ。
キリストが私たちのために死んでくださったのだから。

② だれでもキリストの内にあるなら
パウロはこのように続けている。

5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

ここで言う「肉にしたがって」とは表面的にと言い換えると分かりやすいかもしれない。
人を、表面的な行動や、行いだけで計ることはできない。
その人の内側に聖霊がおられるかどうかということが、本当に大切なことだから。

表面的に、あるいは教義や教理的にキリストを知ることが悪いとは言わない。
かつては、そのような理屈でしかキリストを知らなかった。
でも、もはやそうではない。
今は霊によって、キリストの本質を個人的に知っている。
知っているだけではなく、ともに生きている。
そのような文脈の中で、次の有名な言葉は語られている。

5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

こうして読んでみると、「キリスト教という宗教を信じて新しくなりました」というほど軽い話ではないことがわかる。
「キリストのうちにある」というのは、私たちが肉として自分に死んで、主にしたがうものとして生きるということ。
宗教や教会組織への所属とか、聖書を勉強することによって得られるようなものではない。
イエスさまがそうだったように、全てにおいて神さまに従順になるということを意味している。
それは、キリスト教という宗教や、教会という組織、牧師という人間に従うことではない。
ルールブックのように聖書を読んで、「あれもしなきゃこれもしなきゃ」とあくせくするような生き方でもない。
神さまとの個人的な関係の中で、神の声を聞き、それに従って生きること。
それが、新しく造られた者として生きるということ。

そのように聞くと、難しそうで、大変そうというイメージが出てくる人が多そうだが、それが私たちの本来生きるべき生き方であり、私たちはそのように創造されているので、それが一番楽で、喜びにあふれた生き方になるはず。
バイオリンはバイオリンとして奏でられるときに一番いい音ができるのと同じ。
私たちは、案外自分のことをよく知らない。
私のことを一番よく知っているのは、神さま。

問題は、私たちが神さまを信頼しきれないというところにある。
心を預けることが大切。
神さまを信頼して、身を任せよう。

③ 神との和解がすべてのカギ
ここまでを理解すると、最後の言葉はとくに解説しなくてもスムーズに理解できると思う。

5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

全ては、神さまとの関係の中にカギがある。
神さまとの関係がなければ、私たちは本来あるべき姿として生きることはできない。
「救い」はキリスト教の中で大きな誤解ととともに伝えられてきたように思う。
救いとは死んだ後のことではない。

救いの全ては、私たちが神さまとともに生きる中にある。
そしてその関係は、肉体が滅んだ後も永遠に続くものなのだ。
その関係を受け入れて、一人でも多くの人たちが、与えられている救いを手にすることを心から祈る。