IIコリント 6:1-10 IIコリント12 『神の恵みをむだに受けない』 2023/09/24 けんたろ

IIコリント 6:1-10
6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。
6:2 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
6:3 私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、
6:4 むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、
6:5 むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、
6:6 また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、
6:7 真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、
6:8 また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
6:9 人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
この手紙には二つのテーマがある。

ひとつは、福音的な恵みによる救いではなく、律法を強調するアンチパウロ派の人々に対する牽制。
もうひとつは、「私」ではなく「神」が私たちの内に生きることの大切さを示すこと。

前回の箇所で語られていたのは、私たちが単に救われるのではなく、「キリストの内に生きる」ことが大切だということ。
キリストの内に生きるとは、キリストを頭として、キリストの聞き従うこと。
そして、その他絵に必要なのは、まず神さまと和解するということだった。

① 神の恵みを無駄にしない
それに続いてパウロが話すのは、神の恵みを無駄にしてはならないということだった。

6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。

「恵みを無駄にする」とはどういうことだろう?
恵みとは、無条件に一方的に与えられるもののこと。
救いの本質は神さまとの和解にあり、それは無条件に与えられるものである。
パウロはイザヤ書を引用しつつ、今こそが恵みのときであり、救いのときだと言う。

6:2 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

私たちは、一方的な恵みとして、この救いを受け取ったのである。
しかし、多くのクリスチャンは、救いとクリスチャンとしての生き方を混同してしまっているように思う。
そこには2種類の勘違いと極端があり、第一の勘違いは完璧なクリスチャンにならなければ救われないという極端。
第二の勘違いは、「救われたからもう自分は完璧なクリスチャンである」という極端。
そのどちらも、神の恵みを無駄にすることになる。

第一の側は、すでに恵みとして与えられている救いを放棄して、自分の行いや内面の変化によって勝ち取ろうとしている。
第二の側は、せっかく恵みとして与えられた救いを無価値なものとして扱い、救いを浪費してしまっている。

私たちは、恵として救いが与えられたから救われている。
ただそれを受け取れば救いわれる。
でも、救われたなら、そこに大きな感謝の心が起こる。
救いという恵みを受けたにもかかわらず、それが当たり前のように思ったり、今度は神さまが自分の言うことを聞かないというので怒り出すのは調子に乗り過ぎというものだろう。
私たちの多くは、その両極端を行ったり来たりしてしまいがちなのだと思う。

② 神のしもべとして生きるとき
その、救われた喜びのために、パウロたちはこのような働き人として主に仕えてきた。

6:3 私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、
6:4 むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、
6:5 むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、
6:6 また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、
6:7 真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、
6:8a また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

パウロがここで言っていることは生半可なことではない。
私たちが同じことをしようとしても、なかなかできることではないかもしれない。
神さまは、それぞれに違う使命を与えているので、私たちもパウロと同じことをするべきというよりも、神さまが命じていることに従うべきだろう。

一つ言えるのは、神さまに従うとき、私たちが自分の力以上のものが発揮できるということだ。
神さまが命じるなら、口下手でも人に伝えることができるだろう。
神さまが命じるなら、力が弱くても勝利することができるだろう。
その時私たちは、どんな困難も、主にあって乗り越えることができる。

③ 何も持っていないようでも
パウロ自身も、少なくともこのときコリントのクリスチャンたちからの評価は低かった。
ユダヤ人たちからは裏切り者として嫌われていたし、アンチパウロの人たちからはたくさんの悪口を聞いていただろう。

理屈っぽく、怒りっぽく、人前で朗々と話すタイプでもない。
人々からの献金で豊かな生活をしているわけでもなく、それどころか生活のためにテントを縫っている。
元はエリートだと評判だったけれど、人々から尊敬されて「先生」と呼ばれているというイメージからは程遠い。
だからコリントのクリスチャンたちの心も、パウロから離れていた。
しかしそれでも、人からどう見られるかは問題ではないとパウロは言い切る。

6:8b 私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
6:9 人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

ここでも大切なことは、私たちが神さまに従順に仕え、従っているかどうかということ。
私たちがどのような人間で、何ができ、何ができないかではなく、神さまが私たちの内に生きているかどうかがすべて。
私たちは、そのような生き方をしているだろうか?
今一度、確認してみる必要があるのではないだろうか?