IIコリント 6:11-18 IIコリント13 『つり合わないくびきをともにしない』2023/10/01 けんたろ

IIコリント 6:11-18
6:11 コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。
6:12 あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。
6:13 私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。
6:14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
6:16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
この手紙には二つのテーマがある。

ひとつは、福音的な恵みによる救いではなく、律法を強調するアンチパウロ派の人々に対する牽制。
もうひとつは、「私」ではなく「神」が私たちの内に生きることの大切さを示すこと。
ここにきて、その二つのテーマが重なり始める。

① 心を広く開いて
パウロを通して福音を知ったにも関わらず、反パウロ派の人々の言葉に耳を傾けてしまったコリントのクリスチャンたちに、パウロはこのように書いている。

6:11 コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。

敵対的な言葉を放つ人々に対して、私たちは心を閉ざしたくなるものだが、「自分たちの心は広く開かれている」とパウロは言う。
それは、敵対的だった私たちに対してそれでも愛してくださっていた神さまの愛を知っているからなのかもしれない。

6:12 あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。

心を閉ざしているのは私たちの方ではなく、あなたたちの方だと言うのだ。
そして、あなたたちの心が狭くなっているから、私たちの愛の心が狭くなっているように感じてしまうのだと説明している。

誰かにネガティブな思いを持っている時、その人の言うことが全て悪いことに感じてしまうことはないだろうか?
逆に、好意を持っている人の言葉は、何でも良いことのように感じてしまう。

コリントの人々は、アンチパウロ派の人々の話を聞いて、パウリにネガティブな思いを抱いていたため、パウロの言うことをポジティブに受け取れなくなってしまっていたのだ。
彼らの不品行を非難する言葉は、イチャモンをつけているように聞こえたかもしれない。
パウロは、彼らを否定してこき下ろそうとしたのではない。
彼らがより良い方向に進めるように励ましたかったのだ。
だからこのように言う。

6:13 私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。

② つり合わないくびき
パウロは、コリントの人々が抱き始めていたパウロに対する反発が、彼ら自身の中から出てきたものではないことを知っていた。
アンチパウロ派の働きは、コリントだけの問題ではなかったからだ。

6:14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。

パウロはここで、反パウロ派の人々を「不信者」と呼んでいる。
私たちが、まだクリスチャンではない人たちを表す「未信者」ではない。
福音を知らないのではなく、福音を否定する人たちを不信者と呼んでいるのだ。

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけない」とパウロは言う。
くびきとは、2頭の牛をつないで荷物を引かせるための道具。
不信者とはくびきはつり合わず、それは共に歩めるものではないと言うのだ。
それは、正義と不法であり、光と闇であり、キリストとベリアル(悪魔)である。
そこには何の関わりもないというだけではなく、クリスチャンを間違った方向に人を歩ませてしまうことになるだろう。

これは、「価値観の違う信仰を持たない人たちから離れ、世捨て人になれ」という話ではない。
神さまはむしろ、世の人々に仕え、地の塩・世の光としてこの世界で生きることを求められている。
大切なのは、「くびきをともにしない」ということだ。
それは、彼らと同じ重荷を背負い、同じ方向に進んでいくことを意味している。
私たちはこの世の中で生きるが、この世に同調して同じ重荷を負い、同じ方向に進んでいくことはしない。

ローマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

私たちはこの世で生きながら、彼らとは違う生き方をするのだ。

③ 私たちの負うべきくびき
それでは、私たちは誰と、どんなくびきを負うべきなのだろうか?
イエスさまとともに、主が負わせるくびきを背負うのだ。

マタイ 11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

私たちは、誰とくびきを負っているだろうか?
間違った人たちと間違ったくびきを負ってはいないだろうか?
世の中では、「他の人たちと同じくびきを負うように」というプレッシャーが働いている。
そうしなければ、生きてはいけないと言われる。
世の人々と合わせることも大切だと説得されることもある。
しかし、私たちが従うべきはただ主だけだ。

主が負わせるくびきを背負おう。
それは険しい道のように思えても、その荷は軽く、たましいにやすらぎを得ることができるはずだ。