IIコリント 7:1-9 IIコリント14『 悲しみの先にある喜び』2023/10/15 けんたろ

IIコリント 7:1-9
7:1 愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。
7:2 私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。
7:3 私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。
7:4 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。
7:5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
7:7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。
7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。
この手紙には二つのテーマがある。

ひとつは、福音的な恵みによる救いではなく、律法を強調するアンチパウロ派の人々に対する牽制。
もうひとつは、「私」ではなく「神」が私たちの内に生きることの大切さを示すこと。

前回は、神さまと繋がる私たちは、意図的に福音を信じようとしない「不信者」と同じくびきに繋がれてはならないという話だった。
それは、不信者とは神さまを知りながら、神さまを信頼せず、意図的に従おうとしない人たちだから。

① 聖さを全うするとは
パウロは、私たちが不信者から距離を置くというだけでなく、私たち自身も聖さを保つ必要があると話している。

7:1 愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。

「このような約束」とは、6章最後に書かれたイザヤ書からの引用のこと。

6:16d 「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」

「聖さ」という日本語から、私たちは罪を犯さないことだと思いやすい。
それが大切ではないとは言わないが、そこをポイントにしてしまうと、アンチパウロ派の人々が言っていた「一生懸命がんばって悪い行いをせず、善い行いをするようにしましょう」という話になってしまう。
本当に大切なのは、神さまとの関係性を良い状態に保つことであり、汚れず聖い状態というのは、神さま以外のもの(偶像)が混ざってしまわない状態のことである。
私たちは「律法」や「神学」「宗教」「教会という組織」などもたやすく偶像にしてしまうことを忘れてはならない。

② 心を開いて
そして、「あなたたちが心を開くべきは、不信者たちではなく、私たちだ」と、も一度(6章でも言っていた)心を開いて欲しいと願っている。

7:2 私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。

不信者たち(アンチパウロ派)の人々が言うように、私たちは不正したり、誰かを滅ぼしたり、だましたりしたことはない。
むしろ、不意信者たちこそが福音をゆがめ、分裂を起こそうとしている。

7:3 私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。
7:4 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。

そんな私たちから離れようとしたあなたたちを責めようとしてこんなことを言っているのではない。
あなたたちの心が私たちとともにあることを、私たちは知っている。
だから、どんな苦難に直面することがあっても、私の心は慰められ、喜びにあふれることができるのだ。
もちろん、初めからそう思えたわけではない。

7:5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
7:7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。

第一の手紙の後、コリントを訪れた時にはあなたたちの態度にがっかりし、絶望的な気持ちでマケドニアに行ったけれど、あなたたちの元に送ったテトスからの知らせによって、あなたたちの私たちへの思いと、心を痛めていることを知ることによって、私たちは今平安の中にある。

③ 悲しみの先にある喜び
続いてこのように書いている。

7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。

「あの手紙)とは、第一の手紙のこと。
第一の手紙は、確かにコリントの人たちを傷つけ、悲しませることとなった。
それによって、パウロを否定する動きもさらに深刻になったかもしれない。
しかし、それでもあの手紙を送ったことを後悔していないとパウロは言う。
それは、その手紙を通して悔い改めた人たちが起こったからだ。

ここから学ぶことができる第一のことは、私たちは誰かを悲しませることになっても伝えなければならないこともあるということ。
でもその時は、伝え方に気を付ける必要がある。
ただ正論をぶつけても、相手には伝わらないからだ。

第二に、私たちは、悲しみや困難からも学ぶことができるということ。
そのときには、辛く痛い経験だったりもするが、私たちはそこから自分の間違いを学ぶなら、方向転換して正しい道を進むことができる。

第三に、私たちは悲しみの先に喜びがあることを期待することもできるということ。
そのためには、悲しみを悲しみのまま終わらせてはならない。
神さまがそこに表してくださる導きを受け取り、その道を進むなら、私たちの悲しみはいつか喜びへと変わる。
信仰を持って、悲しみを受け取ろう。