IIコリント 7:10-16 IIコリント15『 二種類の悲しみ』2023/11/05 けんたろ

IIコリント 7:10-16
7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
7:11 見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。
7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。
7:13 こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。
7:14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずにすみました。むしろ、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。
7:15 テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。
7:16 私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。

前回は、コリントの人たちに厳しい内容の手紙を書いたことによって、コリントの人たちはひどく傷つき、パウロもまたそのことを悲しんだということ。
しかし、それは悲しみのままでは終わらず、やがて喜びへと変わっていった。
なぜなら、コリントの人たちがそれによって悔い改めたから。
今回は、今日の聖書箇所からの解説というより、この世の悲しみと、神さまがもたらす悲しみの違いについて話していきたい。

① 後悔と悔い改め
今回の箇所で、パウロは2種類の悲しみについて話している。
一つは、神のみこころに添った悲しみで、後悔がなく救いに至る悔い改めに向かわせる。
一方、世の悲しみは死をもたらすという。
さらに、ここには、「後悔」と「悔い改め」という、似たような言葉が出てくるので混乱してしまいがち。
そこで、まずは「後悔」と「悔い改め」の違いから解説しておきたい。

シンプルに言うと「後悔」は感情のことであり、「悔い改め」は行動のこと。
私たちは、自分が罪を犯したり、間違ったりしてしまったときに、「どうしてこんなことをしてしまったのだろう」とか、「しなければよかった」と悔やむ感情が起こる。
この感情が「後悔」である。
ただ悔いるのではなく、罪から離れたり、失敗を挽回したりするために行動を起こすなら、それは「悔い改め」となる。
つまり、違いは「改め」の部分にあることがわかる。

② この世の悲しみと神のみこころに添った悲しみ
それでは、「この世の悲しみ」と「神のみこころに添った悲しみ」の違いは何だろう?
これもシンプルに言うなら、その悲しみに「悔い改め」という行動が伴うかどうかという違いである。

この世の悲しみは、後悔はしても行動は伴わないので、嘆き悲しみに終始する。
「なんであんなことをしてしまったのだろう?」
「どうしてこの罪を離れることができないのだろう?」
「この世界はなんと無常で、ひどいのだろう」
そして、悲しみの原因を他人や環境に結び付けるので、人を恨み、世の中を恨み、やがては神を恨むようになる。
その先には何の希望もなく、ただ絶望に向かうだけである。

神のみこころに添った悲しみは、問題の原因を自分の中に見出す。
「自分は罪人である」というところから始まるので、問題を変化させる余地がある。
変えることのできない悲しみは絶望でしかないが、実際に変えることができるかどうかはともかく、「変えることができる」というそのこと自体が希望になる。
私たちクリスチャンは、神さまとともにいるので、その希望はますます大きなものとなる。
神さまの助けを求め、それを得ることができるからだ。

第一の手紙でコリントの人々が悲しんだのを知ったとき、パウロはそのことを心配した。
しかし、コリントの人々がただそれを嘆くのではなく、悔い改めて神さまに立ち返るのを見て、パウロはそれを心から喜んだ。

③ 思いの部分から改める
「悔い改め」について、さらに深く踏み込んでみよう。
第一に、大切なのはどの方向に悔い改めるかということである。
単に罪や失敗を「改める」だけでは、私たちはまた別の罪や失敗に向かう可能性がある。
だから私たちは、「罪や失敗から」改めるのではなく、「神さまの方へ」改める必要がある。
自分ではなく神さまを中心にして考える時、私たちは向かうべき方向を定めることができるようになる。

第二に、なぜそれを改める必要があるのかを知るということ。
私たちは「それが悪いことだからやめなければならない」と思っていても、「なぜそれが悪いのか」を理解していないケースが意外と多い。
盗むのはなぜ悪いのだろう? 
浮気や不倫の何が問題なのだろう?
偶像崇拝はどうしていけないのだろう?
「禁じられているから」「ダメと言われたから」「叱られたから」という理由では不十分。
どこに問題があるのかを理解していないのに、それをやめようとすることは不可能だろう。
本当にそれから離れる理由が、自分の中にはないからだ。

第三に、行動だけでなく思いの部分から改めるということ。
「悔い改め」という言葉の本来の意味は、「思いを改める」という言葉である。
行動だけを改めても、その行動を起こした根本的な動機である思いが変わっていなければ、やがてまた同じことを繰り返すことになる。

私たちはなぜその失敗や罪の行動を犯してしまったのだろう?
その動機や、目的はなんだっただろうか?
私たちが同じ罪や失敗を繰り返してしまうなら、その背後には私たちが無意識に求めてしまっている欲求があるのかもしれない。
必要であればその部分を見つけ、そこから変える必要がある。

例えば、「誰かの心を傷つけてしまった」ということについて考えてみよう。
「誰かの心を傷つける」ことは罪だろうか?
自分の問題を指摘されて傷つかない人はいないだろうが、指摘されなければ気づけないこともある。
それ自体が罪なのではない。
しかし、その背後に「自分が誰かの優位に立ちたい」とか「自分の正しさを証明して思い知らせたい」という思いが強くあるなら、それは悔い改めるべき罪ということになる。
誰かの心を傷つけること自体が喜びになっているのだとしたら問題外だろう。
このような罪は、自分自身からも隠されていることが多く、自己正当化してそれが正しいことであるかのように思いこんでしまっていることも少なくない。
すべては、私たちが神さまとの関係を深めていく中で、取り扱われる必要のある問題なのだと思う。

コリントの人たちに悔い改めが起こり、悲しみが単なる悲しみで終わらなかったことをパウロは喜んだ。
私たちもたくさんの悲しみに直面する。
それが、私たちを神さまに立ち返らせるきっかけとなり、大きな喜びで満たされるようになることを心から願っている。