IIコリント 8:1-15 IIコリント16『マケドニアの恵み』 2023/11/12 けんたろ

IIコリント 8:1-15
8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
8:2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。
8:3 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、
8:4 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。
8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。
8:6 それで私たちは、テトスがこの恵みのわざをあなたがたの間で始めたからには、それを成し遂げるようにと、彼に勧めました。
8:7 あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。
8:8 私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
8:10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは献金を実行することだけでなく、その志を持つことも、昨年から始めて他に先んじていました。
8:11 ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。
8:12 喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。
8:13 私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。
8:14 今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。
8:15 「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。

第一の手紙を書いた後、コリントを訪れたパウロは、コリントの人たちの反応が悪いことに気づき、直接的な働きかけをあまりしないままマケドニアに移った。
そこでテトスが合流し、パウロは少しずつコリントで起こったことの分析が進んでいる。
第一の手紙を通してひどく傷つき悲しんだコリントのクリスチャンだったが、そのことを通してコリントには悔い改めが起こった。
立ち返っている人たちがたくさん起こされていることを聞いて、パウロはそのことを喜んでいるというところまでが前回の話。

① マケドニアに与えられた神の恵み
8章の前半では、「マケドニアの諸教会に与えられた神の恵み」について書いている。
マケドニアに与えられた神の恵みとは何だっただろうか?
恵みとは多くの場合、一方的に与えられるものとして説明される。
「マケドニアの恵み」と言うなら、それはマケドニアの人々に与えられたものだろう。
続く節に与えられたが記されている。

8:2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

「あふれる喜び」それはいいけれど「極度の貧しさ」「苦しみによる激しい試練」そして「あふれ出て、惜しみなく施す富」というのがここで表されている恵。
「自分も欲しい」とは簡単に言えないものではないだろうか?
実際、マケドニアのクリスチャンたちが経験したのは大きな迫害だった。
それによって、多くのクリスチャンが苦しい状況となり、経済的にも貧しい状況に陥った。
しかし、マケドニアの人々は惜しみなく施したという。

私たちは、恵みとして神さまから与えられることを求めることが多いのではないだろうか。
それも、もちろん恵みということはできるが、時として神さまが与える恵は、受ける恵みではなく与える恵みである。
マケドニアの人々は、苦しい状況の中でも与える喜びを知った人たちとなった。

② 喜んで捧げること
ここでマケドニアが「施した」のは、一体誰に、何のための施しだったのだろう?
それは、第一の手紙で記されていたエルサレムの人々への献金のこと。
エルサレムには先に、ユダヤ教徒たちによるクリスチャンへの迫害が起こっており、多くのクリスチャンたちが厳しい状況に陥っていた。
そんなエルサレムの人々をサポートするために、使徒たちは他の町のクリスチャンたちに献金を募っていた。

コリントの人たちも、パウロによって第一の手紙のときに、自分が来る時までに用意しておいてほしいと伝えられていた。
しかし、パウロが訪れたとき、コリントの人々はその準備がなかった。
パウロはそれを受け取らないまま、マケドニアに行くことになったという状況である。
それでは、パウロは喜んで捧げるマケドニアの人々のことを伝えて、コリントの人々に当てつけているのだろうか?
そんな風にも受け取れてしまうが、そんな風に意図していたわけではない。
パウロは、もともとマケドニアのクリスチャンたちと同じように喜んで捧げようとしていたコリントの人々に、その時の気持ちを思い出してもらいたかったのだ。

8:8 私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。

8:11 ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。

コリントのクリスチャンたちの問題は、最初に持っていた愛と信仰による行動ではなく、アンチパウロ派の人々の声に従って行動しようとしたこと。
そんなことのために、神さまから与えられた喜びを失ってしまうのはばかばかしい。
パウロにしてみれば、「私のためでなくていいから、神さまと自分自身のためにそれをしなさい」と言いたいところだっただろう。

③ 分かち合う喜び
分かち合う喜びとはどこにあるのだろうか?
第一に、分かち合う相手がいるということは喜びである。
分かち合う兄弟姉妹がいるということは、私たちクリスチャンの喜び。

第二に、互いに支え合うことに喜びがある。
ただ誰かのために捧げ続けるのではなく、必要な時には捧げられるのだとパウロは言う。

8:13 私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。
8:14 今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。

これは、日本人が持っている「お互いさま」の精神によく似ている。
ただ、くれた人にお返しするというのとは違う。
与えられたことを喜んで、次に与える側になるときには、必要としている人たちに自分が与えられるものを与えるのだ。
20年以上前に「ペイ・フォワード(Pay it forward)という映画があった。
「何かを得るために支払うのではなく、みんなが先に支払うことによって世界が回る」という考え方は、聖書から来ている価値観。
私たちはこの価値観を忘れてしまいがち。

そして第三に、イエスさまに倣うことの喜びがある。

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

この手紙では献金の話をしているが、与えことができるのは何もお金だけではない。
イエスさまは私たちのために「神である」という富を投げ捨てて、人となってくださった。
それよって、私たちは救いという富を得たのだ。

私たちが分かち合うことができる富は何だろう?
それを互いに与え合う喜びを、心から味わおうではないか。