IIコリント 8:16-9:5 IIコリント17『信頼する同労者』 2023/11/19 けんたろ牧師

IIコリント 8:16-9:5
8:16 神に感謝します。私があなたがたのことを思っているのと同じ熱心を、神はテトスの心にも与えてくださいました。
8:17 彼は私の勧めを受け入れ、大変な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。
8:18 私たちはテトスと一緒に一人の兄弟を送ります。この人は福音の働きによって、すべての教会で称賛されています。
8:19 そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わる私たちの同伴者になるようにと、諸教会の任命を受けています。私たちはそのわざに、主ご自身の栄光と私たちの熱意を現すために仕えています。
8:20 私たちは、自分たちが携わっているこの惜しみないわざについて、だれからも非難されることがないように努めています。
8:21 主の御前だけでなく、人々の前でも正しくあるように心がけているのです。
8:22 また、彼らと一緒にもう一人、私たちの兄弟を送ります。この兄弟が多くのことについて熱心であることを、私たちは何度も認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。
8:23 テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。
8:24 ですから、あなたがたの愛の証拠と、あなたがたを私たちが誇りとしている理由を、彼らに対して、諸教会の前に示してほしいのです。
9:1 聖徒たちのためのこの奉仕については、これ以上書く必要はありません。
9:2 私はあなたがたの熱意を知り、そのことでマケドニアの人々にあなたがたのことを誇って、アカイアでは昨年から準備ができていると言ったのです。あなたがたの熱心は多くの人を奮い立たせました。
9:3 私が兄弟たちを送るのは、あなたがたについての私たちの誇りが、この点で空しくならないためであり、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。
9:4 そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。
9:5 そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。

迫害によって困窮しているエルサレムのクリスチャンたちを助けるため、献金を募り、集めることがコリントの第一の手紙の目的の一つだった。
第一の手紙の後、パウロはコリントを訪れたが、コリントの人々は献金を用意していなかった。
それは、反パウロ派のたくらみによって、パウロの働きをすべて無駄にしてしまう動きがあったから。
一旦コリントを離れて、パウロはこの第二の手紙をマケドニアから送っている。
マケドニアの人々の愛と熱心さを分かち合い、コリントの人たちに最初に持っていた情熱を取り戻してもらいたかったから。
その献金の回収のために戻ってきたのは、パウロ自身ではなくテトスだった。

① テトス
テトスとはどんな人物だろう?
テトスは使徒の働きに出てきていないため、詳しいことはあまりわからない。
なんだかんだ割礼を受けることになったテモテと違い、テトスは割礼を受けさせられることがなかった。
そのため、テトスはユダヤ人ではなく、異邦人であり、仕えた人々も異邦人だけだったのだと思われる(テモテは母親がユダヤ人だった)。

テモテ、テトスともにパウロに弟子のような存在として知られており、様々な手紙の中でパウロを助ける同労者として登場している。
この手紙を読んでいると、パウロはテトスをとても信用しており、多種多様な働きを任せていたことがわかる。

今回も、テトスはパウロと心を一つにしていて、コリントに献金の回収に行くことを自ら喜んで求めた。
それは、一度は献金を拒んだコリントの人たちが、今は喜んで捧げる者となったことを信じ、信頼していたからだろう。

② ふたりの兄弟たち
パウロはテトスだけでなく、「も一人の兄弟(8:18)」と、そしてさらに、別の兄弟(8:22)を送ると書いている。
この二人が誰なのか推測する学者もいるようだが、記されていない以上実際のところはわからない。
いずれにしても、パウロはこの二人にもかなり信頼を置いていたように思える。

このように、信頼を置いていた人たちを向かわせたのは、パウロがコリントの人たちを本当に大切に思っているということの現れである。

同時に、この役割はそれほど大きな意味を持った働きだということも意味している。
彼らはパウロの代理であり、コリントの人たちがエルサレムの兄弟姉妹たちへの愛を表現する献金を集めるという重要な働きだから。

8:24 ですから、あなたがたの愛の証拠と、あなたがたを私たちが誇りとしている理由を、彼らに対して、諸教会の前に示してほしいのです。

コリントの教会は、パウロがコリントを訪れた時にはその重要さをちゃんと認識できていなかった。
そのため、反パウロ派の言葉に耳を貸し、献金のことなど知らないかのように振舞ったのだった。
しかし、コリントの教会には悔い改めが起こり、捧げることの喜びを再認識することができた。
「どうせ捧げるなら、いやいや捧げるのではなく、喜びをもって捧げなさい」とパウロ派アドバイスしている。
これに関しては、次回もう少し詳しくお話しする。

③ 適用
第二コリント8~9章にかけて語られていることで、私たちが受け取って、自分事として考えてみるべき部分はいくつかある。

第一に、私たちは彼らのように人を愛することに熱心であるかどうか?
あれだけいろいろ言われていたコリントのクリスチャンたちでさえ、弱っている他のクリスチャンたちを思って助けたいと願う愛があった。
私たちには、このような愛があるだろうか?

第二に、パウロがテトスに対して抱いたように、他のクリスチャンたちのよき同労者として歩んでいるだろうか?
これは、私たちがキリストの体として機能できているかどうかが問われているということでもある。
役に立つ、仕事ができる、善い行いをしているということ以上に、神さまが与えている使命に生きているかどうかが問われている。

第三に、自発的に捧げることができているかどうか?
マケドニアのクリスチャンたちも、コリントのクリスチャンたちも、惜しみなく捧げたということが書かれている。
それは強制・強要されてということではなく、自発的なものであるべき。
そして、惜しみながらではなく、祝福して贈りなさいと言われている。

9:5 そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。

私たちが、自分の思いを中心にしていたら、このような生き方は到底できるものではない。
私たちは、愛されているから愛することができるし、使命が与えられているからその使命に生きることができるし、必要なものは与えられているから惜しまず捧げることもできる。
神さまの愛に浸っているからこそできることだということを忘れてはならない。
神さまの愛の中にいなければ、そもそもこのような生き方をしたいとも思わないだろう。
神さまとともに生きる体験をしてみて欲しい。
受けることによってではなく、与えることにある喜びを感じ取ることができるはずだ。