IIコリント 9:6-15 IIコリント18『いやいやではなく喜んで』2023/11/25 けんたろ

IIコリント 9:6-15
9:6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
9:7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
9:8 神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
9:9 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
9:10 種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。
9:12 なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。
9:13 この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。
9:14 そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。
9:15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

迫害によって困窮しているエルサレムのクリスチャンたちを助けるため、献金を募り、集めることがコリントの第一の手紙の目的の一つだった。
第一の手紙の後、パウロはコリントを訪れたが、コリントの人々は献金を用意していなかった。
それは、反パウロ派のたくらみによって、パウロの働きをすべて無駄にしてしまう動きがあったから。
その献金を集めるためにパウロがコリントに送ったのは、信頼するテトスと、さらに二人の同労者たちだった。

今回は、これから献金を集めるにあたって、その捧げ方についてのパウロのことば。

① 大胆にささげる
パウロは、ささげるときには、気前よく、大胆にささげることを勧めている。

9:6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。

たくさん収穫するためには、たくさんの種を蒔かなければならない。
しかし、畑に蒔くためには、収穫の一部をそのために使わなければならない。
これは投資の話と似ている。投資をするときにはお金を自分のために使うことができないが、投資することによって使えるお金は後になって増える。

しかし、ここには投資したものが増えないリスクがあることも覚悟しなければならない。
畑に種を蒔くときにも、それが芽吹かなければ損をすることになる。
それを失う覚悟がなければ、誰かに何かをささげることもできなくなる。

ただ、忘れてはならないのは、私たちは神さまという畑に蒔き、神さまという会社に投資をしているということ。
それが直接お金に繋がるかどうかはわからなくても、私たちは必ずより大きなものを得ることになる。
リターンを期待して捧げるのはどうかとも思うが、私たちきっと多くのものお借り入れることになるはずだ。

② いやいやながらではなく喜んで
続いてパウロは、どのような思いでささげるべきかについて語っている。

9:7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

これはよく、礼拝献金のこととして取り上げられやすい言葉。
教会という組織にとって一番身近なのが教会への献金だし、常に不足しがちなので仕方がないことではあるけれど、ここでの話は日曜日の礼拝献金とは別の話。
この時パウロが集めていたのは、どちらかと言えば福祉的な役割の献金であり、むしろ募金と呼んでいいもの。
そして、私たちにいつも求められているのは、お金というよりも自分自身をささげて、人に仕えること。
募金活動は、その中の一部でしかない。

大切なのは、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに喜んで与えるということ。
自分で取ろう、奪おうとすると失ってしまう。
しかし、神さまが示した通りに喜んでささげる人は、不思議と与えられるものだ。

③ ささげるときの注意点
今回は、ささげるときの注意点についても述べておきたい。

第一に、受けるために与えない(見返りを求めない)ということ。
教のような聖書箇所を読んだり、「ささげることは投資だ」と耳にすると、「与えられるために与えよう」というマインドになってしまいがちな部分がある。
でも、それは受けることが目的の行為であって、喜んで与えることではない。
大切なのは、「与えること」そのものを喜ぶこと。
そうでないと、後で「こんなにしてあげたのに」という気持ちになるだろう。
見返りがなくて困ることなら、最初から与えない方がいい。

第二に、神さまに従ってささげるということ。
自分がささげるべきものは、神さまが教えてくださる。
そこに必要があるからと言って、貧しい人たちにすべて与えていたら、本当に必要な時に与えることもできなくなってしまう。
自分がするべきこと、仕える相手、ささげるべきものは、神さまに聞いてみよう。
そして、神さまが「ささげなさい」と言うなら、喜んでささげよう。

第三に、私たちには必要なものしか与えられないということ。
これは、私たちが捧げるか/与えるかに関わらず一般的に言えること。
私たちには、必要なものが与えられるが、それ以上は与えられない。
ここが一般的な投資とは違う部分で、成功すれば財産が増えるというものではない。

とは言え、ささげるためにみんなが貧しい生活をしなければならないという話でもない。
豊かに与えられる人ももちろんいるし、それを自分のために使うことも神さまが与えている祝福だ。
豊かな人に仕えたり伝えたりするためには、こちらも豊かである必要がある。
同じ境遇でなければ分かり合えないこともあるので、それもまた神さまの御心である。

私たちには、それぞれに遣わされている場所があり、人々がいる。
私たちが神さまに忠実に生きる時、私たちは自分が遣わされている人たちと繋がることができるのだと思う。

最後に、イエスさまが私たちに教えている豊かさについて思い出せる聖書箇所を読んで終わりたい。

マタイ 6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。