ヨブ42章『ヨブが苦難を通して得たもの―神との和解、人との和解-』2023/12/10 小西孝蔵

1. ヨブ記の時代的背景
・ヨブ記の時代的背景について少しだけ取り上げたい。ヨブ記は、エドム地方に住む異邦人ヨブの生涯について(ソロモンの時代?)、バビロン捕囚の時代(イザヤ書、エレミヤ書とほぼ同時代)にユダヤ人の作者によって書かれたと言われている(諸説あるがこの見解が有力)。従って、ヨブ記19章に出てくるような贖いを求める信仰は、イザヤ書の苦難の僕と贖いの考え方の影響も見られる。自分が周囲から捨てられているという孤独感、悲哀感は、エレミヤの人生とも重なる。ヨブの苦しみは、個人的な苦しみだけでなく、ユダヤ民族全体の苦しみでもあったと考えられる、だからこそ、ヨブ記は、当時もユダヤ人の間で語り継がれ、旧約では、エゼキエル書(15章)において、新約では、ヤコブ書(5章)でヨブの名前が引用されている。

2. ヨブ記のこれまでの振り返り
1 ヨブに襲い掛かる試練 1章~3章 サタンの試み、ヨブの嘆きと信仰
2 3人の友人との論争
-苦難の意味と因果応報論- 4章~31章 エリファズ(3回)・ビルダテ(3回)・ゾファル(2回)⇒ヨブ8回
3 仲介者・贖い主を仰ぎ見る 19章 ヨブの願いと神への訴え(祈り)
4 エリフの仲介 32章~37章 ヨブへの理解と創造主の力を紹介
5 神様の啓示とヨブの応答
-被造物に対する力と愛- 38章~41章 神の呼びかけ(2回)⇒ヨブの告白 
-旧約から新約の福音へー 
6 義人ヨブの回心と結び 42章 神との和解、人との和解、神の祝福
・今回は、ヨブ記の5回目、最終回になる。これまでお聞きになっていない方もおられるので、全体を振りかえってみる。義人ヨブは、神から許されたサタンの試みにより、様々な苦難に襲われる。7千頭の羊などの全財産を次々に奪われた。更に愛する7人の息子と3人の娘を失った。そして、耐えがたいような重い皮膚病。最後にヨブを襲った苦難は、遠方から見舞いに来た3人の友の態度に裏切られ、ついに、自分の生まれたことを呪い、自暴自棄に落ちいった。(1章~3章)
・苦難の原因として因果応報を説く3人の友人との長い論争の中で、あくまで神の前に正しくあろうとするヨブとの論争が続く。(4章~31章)
・そうした中でヨブは、自分の言い分を神に弁護してくれる「仲介者」(mediator)と贖い主(redeemer)を求めるようになる。〇ヨブ記19章「19:25わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に塵の上に立たれる。19:26わたしの皮がこのように剝ぎ取られたのち、わたしは肉を離れ、神を仰ぎ見る。そこには、旧約の時代ではあるが、そこに新約のキリストの予兆、複線(foreshadow)が感じられる。(19章)
・3人の友人との論争の後に、もう一人の若い友人エリフが登場し、次に来る神の言葉を先取りするような形で、神とヨブの橋渡し的な役割を果たす。(32章~37章)
・前回のメッセージ箇所(38章~41章)では、ついに、神ご自身が嵐の中から呼ぶに直接語られ、ヨブの心を動かした。
〇ヨブ記40章「40:1主はまたヨブに答えて言われた、40:2「非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ。40:3そこで、ヨブは主に答えて言った、40:4「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。」
・ヨブは、3人の友人との長い論戦で、行きづまっていた中で、神様からの直接の語りかけによって、神の前に全面降伏するに至った。ヨブは、神様から直接的な啓示と霊感を受け、「宇宙万物を創造し支配する圧倒的な力」と、「被造物に注がれる限りない愛」についに心を動かされた。先ほど歌った“How Great Thou Art”(輝く日を仰ぐとき)の賛美は、この時のヨブの気持ちを表しているように思える。前置きが長くなったが本題に移る。

3. ヨブの立ち帰り、神と人との和解
〇ヨブ記42章「42:1そこでヨブは主に答えて言った、42:2「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。・・・42:5わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。42:6それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
・「悔います」とは、単なる後悔でなく、悔い改める(repent)こと、「立ち帰る」(return)と同義語。悔い改めて、神のもとに立ち帰った。ヨブは、神の霊感に打たれて、神の前に自分の義が打ち砕かれた。義人ヨブも神の前には罪人であった。「善を行うものは一人もいない」(詩編14章1節、ロマ書3章10節)。「神が求められるいけにえは、砕かれた霊です。神よ、あなたは砕かれた悔いる心を軽んじられません。」(詩編51篇19節)ヨブの訴えともいうべき願いに対して、沈黙の時が過ぎて、神様が答えられた。そして、ヨブと神様との断絶した関係が回復した。
〇ヨブ記「42:7主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。 42:8それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。私は、彼の願いを受け入れる。・・・42:9そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにした。そこで、主は、ヨブの願いを聞き入れられた。」
・ヨブは、ヨブの心は、仲介者、贖い主を仰ぎ求め、神様との関係の回復を願っていたが(19章)、同時に、8回の論争を通じて対立していた友人との関係回復に導かれた。「我らの罪を赦す如く、我らの罪をも赦し給え」「あなたがたを赦したのだからあなた方も同じようにしなさい」という赦しの心がヨブに与えられた。そこに神との和解と共に、人との和解が実現した。
・以上のことは、第2コロントでパウロが説く「和解(カタラセイン)」につながる。
〇Ⅱコリント5章
5:18・・・神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 5:19すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。5:20神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。
・愛が冷え、分断が深まる今日、家族、友人、さらには敵対者のために祈る、とりなしの祈りが私たちに求められている。

4. ヨブに与えられた祝福
〇ヨブ記42章10~17節
「42:10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。・・・ 42:13また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 42:14彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 42:15全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。 42:16この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 42:17ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」
・ヨブは、病が癒え、財産は倍になり、子供も3人の息子と7人の娘が再び与えられた。苦難後のヨブの繁栄は、全く、神の恵みの結果であった。苦難の前のヨブの繁栄は、ヨブにご利益信仰のもたらしているはずと考えたサタンは、神の許しを得てヨブを試みた。しかし、その試みは、失敗に終わった。ヨブは、神を呪わず、神に立ち帰り、神様との関係を回復して頂くことができた。私たちも、病の癒し、家族の健康、経済的繁栄を願うが、そのことが実現するのは、私たちの信仰や善行の結果ではなく、ただ、神様のめぐみの結果である。大事なのは、神様から与えられる恵みを当たり前のものとはせず、目の前にある恵みを一つずつ数えて感謝することにある。
・余談であるが、ヨブ記の第1回のメッセージの中で、ヨブの妻のことを悪妻と紹介してしまった。しかし、ヨブの妻の名誉回復のためにあえて一言。ヨブの妻は、2章でしか触れられていない。ヨブの妻は夫に対して「神を呪って死になさい」(2章9節)と言い放ったので、一般に悪妻としての汚名を着せられてきた。私もそう思ってきたが、最近、ある人から別の見方があることを教わった。イギリスの詩人及び画家のウイリアム・ブレイクの銅版画の挿絵21枚を見ると、最初から最後までヨブの妻が寄り添っているのだ(パワポ表紙もその一枚)。彼女の辛辣な言葉は、ヨブから「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか。」(2章10節)という言葉を引き出すための逆説的表現であった可能性もある。ヨブ記の作者は、ユダヤ社会特有の慣習であえて妻のことは言及しなかったとも思われる。3人の息子と7人も娘がもう一度与えられるというのは、ヨブの妻が最後まで夫と苦難を耐え忍んできた中で、神から恵みとして、その祝福を与えられたと解釈しても不自然ではない。

5ヨブが苦難を経て得た最も大切なもの
・ヨブ記を振り返って、ヨブの苦難の人生を通して私たちに語りかけていることを想い起こしたい。私たちは、しばしば病気や死、仕事の難題、経済問題、人間関係等様々な苦難に直面して、苦難の意味がしばしば分からなくなる。神様の御心が分からなくなる。何故私に?何故、今なのか?こうした苦難や災難は、神からの罰として与えられることもある。しかし、多くの場合、神から離れている、離れようとしている私たちを神様の元に立ち帰らせるための訓練として与えられる。
〇へブル人への手紙12章「12:11すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
〇ヤコブ書1章
1:12試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
・私たちは、試練を経ることにより、神に立ち帰り、神様の愛する子どもとして頂ける、平安が与えられ、永遠の命が与えられる。これこそ、何にも代えがたい恵みの賜物。イエスは、ラザロの死を前にして「この病死に至らず、神の栄光の為なり」と言われた。
・本日のメッセージの要約は、次の3点。①ヨブの悔い改めと神と人との和解、②神様から与えられる一方的な恵み、③苦難を通して得られる最も大切なもの、
・ ヨブの信仰は、試練の連続で神の御心が分からなくなった時期もあったが、彼は、主を仰ぎ見て、神様に答えを求め続けた。そして、ついに、神様との関係が回復され、神に栄光を帰して一生を終えた。ヨブ記1章のこの言葉に凝縮されている、「私は、はだかで母の胎をで、はだかでかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたので、主のみ名は歩ぶべきかな。」(ヨブ1章20節) 私たちも、ヨブのように、主を仰ぎ見ながら、主の栄光をほめたたえつつ、歩んでいきたい。