IIコリント 10:12-18 IIコリント20 『誇る者は主を誇れ』 2023/12/17 けんたろ

IIコリント 10:12-18
10:12 私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。
10:13 私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。
10:14 私たちは、あなたがたのところに行かなかったかのようにして、無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは他の人たちに先んじて、あなたがたのところにキリストの福音を携えて行ったのです。
10:15 私たちは、自分の限度を超えてほかの人の労苦を誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間で私たちの働きが、定められた範囲の内で拡大し、あふれるほどになることを望んでいます。
10:16 それは、あなたがたより向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して、ほかの人の領域ですでになされた働きを誇るためではありません。
10:17 「誇る者は主を誇れ。」
10:18 自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。

第二コリントは、第一の手紙をきっかけに反応が悪くなってしまったコリントの人たちと、関係を結び直す目的で書かれた手紙。
その手紙は10章から最後のパートへと入り、アンチの人たちとの対決に入っていく。

① 自分を推薦する人たちとの比較
10章の後半では、「アンチの人たちと同じ土俵には上がることはしない」という話をしている。

10:12 私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。

ここに書かれている「自分自身を推薦している人たち」とは、どんな人たちのことだろう?
これはアンチパウロの人たちのことを指しているが、「自分自身を推薦する」という特殊な表現を使っている。
「自分自身を推薦する」とは、自分を高く見積もって売り込もうとする人たちのこと。
「自分にはこんな資格がある」「こんな実績がある」「だから、このグループのリーダーとしてふさわしい」「あなたたちも私の言うことを聞くべきだ」という感じ。

パウロは、言い始めればきりがないほど、宣伝できるようなことがいろいろあった。
パウロはエリートであり、熱心であり、たくさんの働きをし、彼を通しいて信仰を持った人たちも数えきれないほどいた。
コリントの教会は、パウロが福音を伝えたことによって始まったのだから、彼らもそれをよく知っているはずだった。
でも、パウロはあえてそれを振りかざしたり、誇ったりすることはしないという。

② 神さまが割り当ててくださった限度
その代わり、パウロたちが誇るのは、「神に与えられた限度の中」だけだと言う。

10:13 私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。

これも、読んでいて意味が分かりにくい部分だと思う。
「神が私たちに割り当ててくださった限度」とは何のことなのだろう?

これは、パウロが実績や功績にこだわって、自分の思いや計画を中心に行動してはこなかったことを意味している。
私たちには、それぞれ神さまに与えられている使命があり、導きがあるのであって、パウロはそれに忠実に従ってきただけだということ。
そうして神さまに忠実に従ってきた人々は、自分がしてきたことの結果を誇ることはない。
すべて、神さまがさせてくださったことで合って、自分の功績など何もないのだから。

③ 私たちが誇れること
コリントの人たちに最初に福音を宣べ伝えたのはパウロだった。
しかし、パウロはその事実を誇り、振りかざし、コリントの人たちを従わせようとしない。
それは、コリントの教会を育てたのはパウロだけの働きではないから。
パウロは第一の手紙でもそのことに触れていた。

Iコリント3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

だから、他の人の働きによって結んだ実を誇ったりはしないと言っているのだ。

10:16 それは、あなたがたより向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して、ほかの人の領域ですでになされた働きを誇るためではありません。

では、私たちは自分に誇れることは何もないということだろうか?
そういうわけではない。
第一に、私たちはその働きのために神さまが自分を選んでくださったこと。
第二に、私たちが神さまに従うことができたという事実。
私たちはこの二つを誇ることができる。
その結果に起こったことに関しては、私たちはそれをしてくださった主をこそ誇るべきだ。

10:17 「誇る者は主を誇れ。」

逆に言えば、私たちがするべきことはこの二つであり、あとは神さまの領域だということ。
何をするかということも、うまくいくかどうかも、すべて神さまの側の責任なのだ。
それ以上のことをすれば、私たちは神さまが私たちの上に働いてくださる機会を奪うことにしかならない。
それは、私たちにとって決して誇れることではない。

人間的には、他の人と比較して「自分はこんなことしかできていない」と不安になることもあるだろう。
しかし、私たちはそれでも神さまに忠実であることをこそ選ぶべきだ、
なぜなら、そこにこそベストがあるのだから。

イエスさまはこのように言っている。

ルカ 16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

私たちは、大きなことをしたいと思いがちだが、大切なのは与えられた小さなことに忠実であること。
そうすれば、やがて大きなタラントを任されることにもなるだろう。
そうして、小さなことに忠実でありつづけるなら、より大きな働きを与えられることにもなる。

10:18 自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。

私たちが目指すべきポイントはそこにある。
それは、クリスチャンではない人の生き方とは方向性が大きく違ってくる。
そして、最終的に私たちは、より大きな働きをすることになっていくことだろう。