IIコリント 11:1-11 IIコリント21『キリストに対する真心と純潔』 2023/12/24 けんたろ

IIコリント 11:1-11
11:1 私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。
11:2 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
11:3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。
11:4 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。
11:5 私は、自分があの大使徒たちに少しも劣っていないと思います。
11:6 話し方は素人でも、知識においてはそうではありません。私たちはすべての点で、あらゆる場合に、そのことをあなたがたに示してきました。
11:7 それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことで、私は罪を犯したのでしょうか。
11:8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
11:9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたからです。私は、何であれ、あなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。
11:10 私のうちにある、キリストの真実にかけて言います。アカイア地方で私のこの誇りが封じられることはありません。
11:11 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。

今日はクリスマス礼拝だけど、いつも通りに第二コリントの続きからお話をします。
私たちにとっては、毎日がキリストの誕生を祝うクリスマスであり、聖書のどの個所からでも、キリストの誕生を祝うことはできるから。

第二コリントは、第一の手紙をきっかけに反応が悪くなってしまったコリントの人たちと、関係を結び直す目的で書かれた手紙。
この手紙の後半で、パウロは福音に反対して宗教的な行いを押し付けようとしているアンチパウロ派の人々と対決する姿勢を見せている。
前回のメッセージは、私たちは成果や実績に関して自分自身を誇るのではなく、主を誇るべきだという話だった。

① 私の愚かさを我慢してほしい
しかし、ここにきてパウロはコリントの人々に理解してもらい、受け入れてもらうために自らを誇るようなことも言わなければならなくなった。
その愚かさを辛抱して欲しいとパウロは言う。

11:1 私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。

実際に、コリントのクリスチャンたちがこれまで様々なことを我慢してきた。
アンチパウロ派による間違った教えや、聖霊によらない霊の働き、ウソのイエスさま、ウソの福音にたくさんさらされてきたことに耐えてきた。
ならば、少しくらい、先ほど話したことと矛盾する、私の愚かな自慢話にも耐えて欲しい。
そうしなければ、あなたたちは私の言葉に耳を傾けてくれないのだから…。
福音を伝えたパウロのことばではなく、反対派の人々の声に耳を傾けた人々に対しての皮肉が込められているが、コリントの人たちの心に届こうとしている表れでもある。

② 経済的な負担を受けないことに対する批判!?
アンチパウロの人々の批判は、経済的なサポートの話にも及んだ。
もっとも、パウロへの批判はパウロがどれだけ経済的なサポートを要求し、彼らが支払うことになったかという話ではなく、パウロが経済的な援助をまったくなかったことに対してだった。

「パウロが援助を受けないことには、人気がないからなのではないか」とか、「サポートを受けずに日銭を稼いでいる姿は見すぼらしい」というのがその内容。
とは言え、経済的なサポートを受けないから批判されるというのはおかしな話である。
その裏には、経済的なサポートを受けていた人たちが、それを要求しづらくなるからという理由があったのではないかと思う。

パウロが、自分はサポートを受けることなく、他の人々(エルサレムのクリスチャンたち)のためには支援するように訴えていた。
そんなことをされてしまっては、自分たちが献金のサポートを頼みづらくなってしまう。
恐らくはそういう事情から、アンチパウロの人々は、コリントのクリスチャンたちにパウロの悪口を吹き込んだのだろう。

しかし、「それは私たちがあなたを愛し、負担をかけたくないと思っているからに他ならない」と説明している。

11:9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたからです。私は、何であれ、あなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。
11:10 私のうちにある、キリストの真実にかけて言います。アカイア地方で私のこの誇りが封じられることはありません。
11:11 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。

こんなことを説明しなければならないのはおかしな状況だが、コリントの人たちにはそれが必要だとパウロは判断した。

③ 真心と純真
パウロは、どうしてこのようなことを手紙の中で書くのか?
パウロの思いは、この言葉の中に込められている。

11:2 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
11:3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

この思いは、第一の手紙のときから変わっていない。
厳しい言葉を伝え、今は必死の思いでもう一度繋がろうとしているのは、コリントのクリスチャンたちを愛しているからに他ならない。
それは、彼自身がコリントの人々に福音を伝え、キリストと出会うきっかけを作り、キリストの花嫁となるべく導いたから。

その純真な思いが悪魔に踏みにじられて、汚され、ゆがめられてしまうのを黙ってみていることはできない。
それがパウロの中にあった情熱である。

それでは、キリストに対する真心と純潔とは、いったいどのようなものなのだろう?
それは、教えも、イエスさまの人格も、神としての一面も、何もかも自分勝手にゆがめず、ありのままのイエスさまと向き合うことに他ならない。
世の中には、信じやすいように、現代の私たちの価値観に合わせて神さまやキリストを理解しようと、奇跡を否定し、教えをゆがめてしまう働きも少なくない。
また、自分自身の罪や問題を認めず、「愛されている」というところだけを切り抜いてクリスチャンになろうとすることもある。

しかし、私たちが罪人であり、自分の努力ではどうすることもできないからこそ、イエスさまはこの地上に来てくださり、私たちと同じ視点に立ってくださった。
それは、私たちに父なる神さまのこころを伝えるためであり、滅ぶしかない罪人だった私たちのために十字架で命を投げ出し、救いの道を拓くために他ならなかった。

今日は、そんなイエスさまの誕生が世界中で祝われるクリスマスの日。
私たちは、改めて地上に来てくださったイエスさまのことを思いながら、信仰を最初に持っていた時には心の内にあった喜びを思い出そうではないか。
そして、そんなキリストの花嫁となった私たちが、純真に真心をもってイエスさまの愛を受け取ろうではないか。