IIコリント 11:12-21 IIコリント22 『偽使徒に警戒せよ』2023/12/31 けんたろ
IIコリント 11:12-21
11:12 私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。
11:13 こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。
11:15 ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。
11:16 もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。
11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。
11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。
11:20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
キリスト教にはいろいろな宗派、教派があって互いに反目しあっている。
無駄な争いだと感じることも少なくないが、中には真実を守るためにしなければならない戦いもある。
実際に相手と口論するかどうかはともかくとしても、決して耳を傾けてはならない偽使徒たちもいることを忘れてはならない。
① 偽使徒たち
11:12 私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。
ここでパウロが話しているのは、自分は献金によるサポートを受け取らないということ。
彼は、そのスタイルを貫くと言っている。
それは、パウロを貶めて、パウロになり替わろうとしている人々を断ち切るため。
そして、パウロを否定強いたそのような人たちは、みんな反クリスチャン的だと言う。
11:13 こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。
私たちは、このような偽使徒、偽クリスチャンたちに気をつけなければならない。
② 偽使徒とは?
パウロは、どのような人々のことを偽使徒と呼んでいるのだろう?
ここでは、パウロに反対していた人々が偽使徒と呼ばれているが、単に敵対する人々であれば、「偽使徒」という呼び方はしない。
それは、自らを使徒、あるいはそれに準ずる立場に身を置く人々のこと。
つまり、福音を宣べ伝え、働き人である風を装って、実際にはウソや偽りを教えていた人々のこと。
前回読んだ、11章の前半にはもう少し具体的に記されていた。
第二コリント11:4 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。
別のイエスを宣べ伝え、異なる霊や、異なる福音を伝える人々のことだということが分かる。
私たちは偽使徒となってしまってはいないだろうか?
私たちが宣べ伝えているイエスさまや、聖霊、福音は、本当に正しい姿といえるのだろうか?
現代でも、私たちは同じ問題に直面することがある。
あるグループでは、日曜礼拝絶対厳守とされ、しっかり奉仕をし、厳密に献金をしていなければ祝福がないかのように語られることがある。
別のグループは、イエスさまは「愛に満ちている」というところに注目し過ぎて、なんでも許し、何でも受け入れ、何でも叶えてくださるかのように伝えられることがある。
さらに別のグループでは、断食して徹夜で祈ればたくさんの奇蹟が起こり、神さまから祝福されると教えられている。
どのグループの言っていることも、真実が少し含まれているけれど、それぞれの教義が先行して、聖書の本質から外れてしまうことが多い。
それを確認するためには、聖書の中にある全体像と一致しているかどうかを理解する必要がある。
「全体像」ということが大切な部分で、聖書に書いてあれば正しいということでは全くない。
イエスさまが40日間断食していた時、悪魔がイエスさまに囁いたときも、聖書の言葉を引用していた。
悪魔だって聖書を引用する。
そして、ここでパウロが言うように、悪魔は光の御使いに変装する。
③ 回避する方法
最後に、偽使徒、偽預言者、偽教師を回避する方法について終わりたい。
第一に、偽使徒たちに騙されないようにする方法。
それは、私たち自身が神さまに聞くということ以外にない。
必要であれば、私たち自身も学び、私たち自身が考えていくこともあるだろう。
なかなか答えが出せないことももちろんある。
大切なのは、答えを出すことを急がず、ずっと神さまに尋ね続けること。
私たちは、自分で神さまに聞くことができないと思い込んでいたり、自分で考えることを拒むことによって、偽教師たちに騙されてしまう。
神さまよりも分かりやすく、明確に「真理を教えてくれる教師」に頼ろうとしてしまう。
でも、何のために聖霊が私たちの中に住んでくださっているのか、考えてみて欲しい。
私たちは自ら神さまと語り合い、神さまに聞き、受け取ることができるはず。
僕自身も分からないことがたくさんあるが、何年もかけて答えに導かれることもある。
その何年も後に、まったく違う視点から気づかされることもある。
神さまの言葉は普遍的でも、私たちが適用できることはその時その時で違うこともある。
学校のように「正解」を求めるのではなく、「今神さまが伝えようとしていること」を受け取った方がいい。
牧師の話も、参考にはすればいいけれど、鵜呑みにはしないで欲しい。
しっかりと自分で考えるということを、決して忘れてはならない。
第二に、私たちが偽使徒、偽教師、偽預言者にならなくてすむ方法。
偽使徒、偽教師、偽預言者たちは裁きを受けることになる。
私たちはそのような存在にならないように気を付ける必要がある。
大切なことは、私たちが受け取ったことを一般化し、普遍的なことと考えて誰かに教えたりしないということ。
私たちは、自分が受け取ったことを真理だと信じて受け入れる必要もあるだろう。
確信が持てなければ前に進めなくなることもある。
しかし、それをすべての人に当てはめて、他の人も同じだと思ってしまうのは気を付けた方が良い。
それは、必ずしも普遍的な真理だとは限らないから。
私たち自身が間違えて失敗する分には仕方がない。
しかし、他の人たちに間違ったことを伝えるかもしれないという大きな責任を負うべきではない。
「自分はこう思っている」という伝え方がいい。
もっと確信をもってはっきりと伝えるべきだという意見があるのも知っている。
でも、伝える相手が考え、自ら神さまと対話する余地を持たせることは重要なことだと思う。
私たちは、ひとりひとりに語り掛けてくださる神さまの愛に信頼しよう。
そして、どうかひとりひとりが、それを受け取る努力を怠りませんように。