IIコリント 11:18-33 IIコリント23 『弱いから寄り添える』2024/01/07 けんたろ

IIコリント 11:18-33
11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。
11:20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
11:31 主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。
11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、
11:33 私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした。

福音を否定し、またパウロの使徒としての権威性や教えそのものも否定していた反パウロ派の人々に対するパウロの反撃が続く。
自分たちの功績を述べて、自分たちを大きく見せてきた彼らに対抗するために、パウロも「恥を忍んで自分も誇ることにする」と書いている。
しかし、パウロが誇る内容は、偽使徒たちが誇っていた姿とは全く違うものだった。

① 彼ら以上のしもべ
反パウロ派の人々が、どんなことを誇っていたのかということは、具体的にはわからない。
しかし、パウロがここに書いた言葉から、少し予測することはできる。

11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

22節で言われている、「ヘブル人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」ということは、ある意味ではどれも同じことを指している。
ユダヤ人である限り、民族としてはヘブル人だし、国民としてはイスラエル人だし、血筋としてはアブラハムの子孫であると言える。
だからもちろんユダヤ人であるパウロも、この条件に当てはまっている。
反パウロ派の人々は、そんな当たり前の部分で自らを誇っていたのかもしれない。

11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。

23節では、信仰の部分に話が及んでいる。
ユダヤ人であり、キリストのしもべであるということ。
反パウロ派の人々もそのように名乗っていたようだ。
しかしパウロは、自分が彼ら以上にキリストのしもべであることを強調している。
「彼ら以上にしもべ」とは、彼ら以上にキリストに従う者であるということだろう。

「クリスチャンである」という条件に合致する人は、世界で3人に1人はいる計算となる。
しかし、本当の意味でキリストのしもべとして生きていると言える人はどれくらいいることだろう?
そして、私たちは誰のことばを信頼するべきだろうか?
私たちは、コリントの人たちと同じように、ついつい肩書のようなもので相手を信頼してしまいがちではないか?
しかし、私たちが本当に見るべきは、その人が本当にキリストに従う者であるかどうかなのではないだろうか?

② パウロが誇ること
詳しくはわからないが、反パウロ派の人々は、地位や名声、肩書や実績を誇ったのだろう。
以前にも話したけれど、パウロだって本当はそういう部分でも張り合い、むしろ相手よりも高いものを持っていたと思う。
しかし、パウロが「誇る」と言ったものは、それとは正反対のものだった。

11:23b労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

パウロが誇ったのは、彼がどれだけ打ちのめされ、苦しめられたかという話だった。
パウロはキリストの名のもとに、パウロは迫害を受けた。
そのことを誇るというのだ。
イエスさまもこのように言っていた。

マタイ 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

迫害される人がすべて神さまの御心に歩んでいるわけではない。
でも、キリストに従って歩むものは、多かれ少なかれ迫害を受けるものなのだと思う。
残念なことに、多くの場合それは同じ信仰を持つはずの人々からの迫害だ。


迫害を受け、苦しめられることに良い部分があるとしたら、それは弱い人の痛みを知ることができるということだ。

11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。

誰かが弱っている時、自分自身も弱くならずにはいられない。
誰かがつまずいていているなら、心が激しく痛まないではいられない。
高いところからどれだけ相手をねぎらっても、同じ目線で何かを伝えることはできない。
本当に伝わる言葉は、同じ痛みを経験した人の言葉ではないだろうか?

11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

この辺りの話は、またこの先に話すことになる。
この時点で言えるのは、パウロは弱さを経験したからこそ、弱い人たちに寄り添うことができるということだった。
そして、パウロはむしろそのことをこそ誇ると言っているのだ。
それは、神の座にいたイエスさまが地上に来たことと重なるから。

皆さんの中に、弱さを持つ人たちはいるだろうか?
その弱さを誇ることは難しいことだ。
しかし、その弱さゆえに、寄り添える人たちがいることを忘れないで欲しい。
その弱さがあるからこそ、言葉が伝わる相手がいることを覚えていて欲しい。
その時、その弱さは、私たちの誇るべきものとなる。