IIコリント 12:1-10 IIコリント24 『弱さの中にこそある強さ』2024/01/14 けんたろ

IIコリント 12:1-10
12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
12:2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
12:3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
12:5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
12:6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。
12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
12:8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

皆さんは、他の人に自慢したいことはあるだろうか?
あるとしたら、それはどんなことだろう?
足が速いこと、何語が話せること、何キロのバーベルを上げられるか、○○大会での優勝、そのような良いことについて自慢したいのではないだろうか?
もっとも、日本では自慢する人は嫌われてしまうので、自慢する内容は普通とは傾向が変わり、「寝てない自慢」や「病気自慢」のような、自虐が多い傾向もある。
しかし、それでもその自虐の裏側には、普通とは違う自分を誇る思いが見え隠れすることがほとんどだと思う。

しかしパウロは、「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。(第二コリント11:30)」と言っている。
これは、自分の自慢でも自虐からくるものでもない。
それでは、パウロはここで何を言おうとしていたのだろう?
また、なぜパウロは、弱さを誇るべきだと考えたのだろう?

① 第三の天にまで引き上げられました
パウロは、彼に示されたひとつの啓示のことについて話し始める。

12:2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。

ここでパウロは他人の話のような書き方をしているが、ここで記されている啓示は彼自身が受けたものであるという説が有力。
それがいつのときだったと言いうことに関してもいくつかの説があるが、恐らくはパウロが回心のときの体験のことだと思われる。
それは、パウロがイエスさまと出会った体験をしたときだから。
もちろん、聖書には記されていない別の機会である可能性もある。

いずれにしても、パウロは天に挙げられた。
第三の天とは、黄泉の世界のこと(ちなみに、第一の天とは空のことであり、第二の天とは宇宙である)。
その時にパウロが第三の天にまで行ったのは、肉体のままだったのか、肉体を離れて霊だけが挙げられたのかは分からないという。

② ひとつのとげ
そのようにして、天に挙げられ、イエスさまと顔を合わせ、その声を聞き、神さまご自身の臨在を肌身に感じたことを、パウロは誇った。

12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

この時の出来事が何を指しているか、明確な答えは与えられていない。
一つの考察は、これらはパウロが最初にイエスさまと出会った時のことを指しているという解釈である。

それまでクリスチャンを迫害していたパウロは、ダマスコ近くの道端で、突然強い光に包まれ、視力を失った。
そこでパウロは、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスさまの声を聞いている。
そしてこの出来事を境に、パウロはキリストを救い主として生きるようになった。

しかし、そこで示された啓示によってパウロが傲慢にならないように、彼には肉体にひとつのとげが与えられたという。

12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

「とげ」というのは、痛みであり、生きたり生活したりしていくうえで邪魔になるもの。
このとげが具体的に何を表しているのかわからないが、この時以降パウロは目が不自由になったのではないかという説がある。

そのとげが実際に何だったとしても、このようなとげがなければ、パウロはもっと活動することができただろうに、と思っていた。
そのとげが取り除かれるよう、神さまに三度願ったが、それはついに取り除かれることがなかった。

③ 取り除かれないとげ
神さまはパウロにこのように答えたという。

12:9ab しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

分かりやすく言えばこういうことである。
「あなたにはたくさんの才能があり、その力がもっと活かされることを願っている。しかしわたしは言っておく。わたしの力は、あなたの欠けや弱い部分にこそ、それを補うように働きかけるものだ。あなたの強さの中にではない。弱さの中だ」
だからパウロは、はっきりとこのように言うのである。

12:9cですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

本来なら、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難などは喜ぶようなことではない。
パウロはそれを経験するたびに、辛く、苦しく、悔しく、情けなく思ったことだろう。
しかし、パウロはいつしかそれを誇るようになった。
なぜなら、パウロは自分が弱くなる時にこそ、キリストの力によって強くされることを知ったからだ。
そしてそれは、パウロ自身よりもずっと力強いものだった。
パウロを通して世界で多くの人たちがキリストと出会い、その手紙によって多くの人たちが励ましを受けた。
しかしパウロは確信している。
それは自分の力や才能によるものではない。
むしろ、力ない自分自身を通して、神さまが働きかけてくださった結果だと。

私たちもまた、いつでも神さまに従い続けよう。
私たちの弱さの中にこそ働きかけてくださる神さまに信頼し、歩み続けようではないか。