IIコリント 12:11-21 IIコリント25 『求めるのはものではなくあなた』2024/01/21 けんたろ
IIコリント 12:11-21
12:11 私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理に私をそうさせたのです。私は当然、あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。
12:12 私は忍耐を尽くして、あなたがたの間で使徒としてのしるしを明らかにしました。しるしと不思議と力あるわざによってです。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。この私が、あなたがたに負担をかけなかったことだけではありませんか。この不正のことは赦してください。
12:14 見なさい。私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。
12:15 私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。
12:16 それならそれでよいとして、私はあなたがたに重荷を負わせませんでした。それでも私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったと言われます。
12:17 私はあなたがたのところに人を遣わしましたが、そのうちのだれかによって、あなたがたをだますことがあったでしょうか。
12:18 私はテトスにそちらに行くように頼み、あの兄弟もともに遣わしました。テトスはあなたがたをだましたでしょうか。私たちは同じ心で歩んだではありませんか。同じ足跡をたどったではありませんか。
12:19 あなたがたは、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと、前からずっと思っていましたか。私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する者たち、すべてはあなたがたが成長するためなのです。
12:20 私は心配をしています。そちらに行ってみると、あなたがたは私が期待したような人たちでなく、私もあなたがたが期待したような者でなかった、ということにならないでしょうか。争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、混乱がありはしないでしょうか。
12:21 私が再びそちらに行くとき、私の神があなたがたの前で、私を恥じ入らせるのではないでしょうか。そして、以前に罪を犯していながら、犯した汚れと淫らな行いと好色を悔い改めない多くの人たちのことを、私は嘆くことにならないでしょうか。
コリント人への手紙も締めくくりが近づいてきた。
パウロによる、コリントのクリスチャンたちへの弁明も最後になろうとしている。
そして、弁明以上にパウロが本当に伝えたかったことにも話が及んでいる。
パウロがコリントの人たちに求めていたのは何だったのだろうか?
① コリントの人々の矛盾した批判
これまで話してきた通り、パウロとしては、自分について宣伝したり、自分の能力や業績についていちいち話すようなことはしたくないことだった。
そんな自慢話は神さまの前に無意味だし、自分の力なんて大したものではないからだ。
しかし、コリントの人たちに納得してもらうためにはやむを得ず、自分のことについて書いてきた。
12:11 私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理に私をそうさせたのです。私は当然、あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。
12:12 私は忍耐を尽くして、あなたがたの間で使徒としてのしるしを明らかにしました。しるしと不思議と力あるわざによってです。
パウロは、キリストの名によって奇跡を起こすことを通しても、自らが力ある神さまの使徒であることを示してきた。
一方で、コリントのクリスチャンたちはどうだっただろう?
パウロの批判を広げた偽使徒たちに対して献金を捧げ、パウロに対してはエルサレムへの募金の要請にも応えようとせず、パウロがお金を巻き上げようとしているかのような批判をしていた。
勘違いも甚だしいが、パウロはそれに対して皮肉を込めてこのように答えている。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。この私が、あなたがたに負担をかけなかったことだけではありませんか。この不正のことは赦してください。
「偽使徒たちがそうしたように、私もあなたから献金を巻き上げなくてすみませんでした。私も彼らを見習うべきだったかもしれません」というような意味合いがここには含まれている。
② パウロが本当に求めているもの
しかし、パウロが本当に求めているのはコリントの人たちから、自分のためにお金を巻き上げることではない。
12:14 見なさい。私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。
パウロはこれからもう一度、コリントへの三度目の訪問をしようとしている。
これまで、手紙の中で何度も書いてきたように、エルサレムを助けるための募金をするのは確かだ。
でも、それは本当に大切なことではない。
本当に大切なのは、お金でもものでもなく、コリントの人たちの心なのだ。
あなたがそれを心から望むのでなければ、何も捧げる必要なんてない。
むしを、私たちがあなたたちを養おう。
あなたたちは、私たちにとって子のように大切な存在であり、親は子を養うものなのだから。
③ 神を愛すること
神さまが私たちに求めるものにも同じことが言える。
神さまは、私たちに求めているのは、「行い」ではなく「信仰」であるというのは、まさにそういうことだ。
神さまを愛する思いなしに、「善い行い」をどれだけ積み重ねても、それが神さまを喜ばせることはない。
行いの部分では失敗ばかりだったとしても、神さまを心から思い、愛し、そのために変わろうとする人を、神さまは求めているのだ。
では、私たちはどうだろう?
私たちが誰かを愛するとき、その人がくれるものを愛しているのだろうか、それともその人自身を愛しているのだろうか?
もし、誰かが「何かを与えてくれるから愛する」というのであれば、それは本当に愛なのだろうか?
相手がどうであろうと、相手を思うこと、聖書はそれを愛と呼んでいる。
パウロは、コリントの人々が何も与えなくても、パウロに背き、反対しても彼らに対する愛は変わらなかった。
反パウロ派の人々に対してはそうではない。
それは、彼らがパウロのことを嫌っていたから…ではない。
反パウロの人々は、福音を否定し、神の心を無視し、神の名のもとに人々を自分たちに従わせようとする人々だったからだ。
彼らは、自分たちのことをキリストの弟子と名乗っていたが、キリストに従う者ではなかった。
パウロは、そんな彼らを神に敵対するものとして認識していた。
私たちも、自分自身の認識を改めてよく考えてみるべきだと思う。
まずは私たち自身が神に敵対する者となっていないかどうかということ。
そして、クリスチャンと名乗っていても、実際には神さまに従おうとせず、神になり替わろうとするような人たちにへつらう必要はないということ。
さらに、もう一つ私たち自身のことを考えてみよう。
私たちの、神さまに対する愛は本物なのだろうか?
つまり、私たちは神さまを愛し、神さまを求めているのだろうか?
それとも、神さまが与えてくださる祝福を求めているのだろうか? ということ。
私たちが心から求めるべきは、祝福ではなく、神さまだ。
神さまが私たちの願いをかなえてくださらなかったときにこそ、私たちの愛は問われる。
何かが思い通りに行かなかったとき、それでも神さまを愛し、神さまに従いたいという思いがあるなら、私たちは本当に神さまを愛していると言えるのだろう。
しかし、神さまが願いをかなえてくださらなかったときに神さまへの信仰を失ってしまうなら、私たちが愛していたのは神さまではなく、私たち自身の願いだったのだ。
私たちはそんな自分自身を認め、神さまに立ち返る必要がある。
僕自身、そんな自分に気づかされることが少なくない。
でも、だからこそ「悔い改めることができる」ということがどれだけ大きな祝福であるかということを思わされる。
ぜひ、そのことを覚え、必要であれば神さまに立ち返ろうではないか。
神さまは、私たちがそうして悔い改めるのを待ってくださっているのだから。