IIコリント 13:1-13 IIコリント26『信仰に生きているか』2024/01/28 けんたろ

13:1 私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。
13:2 以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。
13:3 こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。
13:4 キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。
13:5 あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
13:6 しかし、私たちは不適格でないことが、あなたがたに分かるように、私は望んでいます。
13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく、私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。
13:8 私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。
13:9 私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。
13:10 そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。
13:11 最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
13:12 聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

長かったコリントへの手紙のシリーズは今日で終わる。
ここまでくればもう、細かく説明する必要もないだろう。
パウロは、コリントの教会への三度目の訪問に向けて言葉を送っている。
これが、コリントへの最後の滞在となり、この後パウロはエルサレムに行くこととなる。
パウロは、その前に何を伝えようとしていたのか。

① 容赦しません
手紙の締めくくりに向けて、パウロはコリントの教会が正常化し、不品行から離れていることを期待していることを伝えている。

13:1 私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。
13:2 以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。

パウロがもともとコリントの人々に手紙を送ることになった理由はそこにあったし、それはクリスチャンとしてふさわしくないことだったから。
「容赦しない」と言うパウロの言葉は恐ろしく聞こえるが、それでもそれは、イエスさまの再臨のときに比べれば何でもない。
言ってみれば、これはイエスさまの再臨への予行演習のようなものだ。
本番に備え、「いつも目を覚ましているように」というのが、パウロの思いなのだろう。
私たちも、身が引き締まる思いに駆られる。

② 信仰に生きているか
前回のテーマでもあったが、大切なのは「悪いことをしない」ということではない。
本当に求められているのは、「私たちの心が神さまを向いているかどうか」ということ。
パウロはここでもこのように書いている。

13:5 あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。

これまでも話してきたように、信仰とは神さまの存在を信じるかどうかというよりも、神さまとの関係を持っているかどうかということ。
この箇所を通しても、信仰とはキリストが自分の内にいるということだと明確にされている。
しかし、信仰を持ち、神さまとともに歩んでいるなら、私たちの行動も変わっていくということはある。

ヤコブ 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

この言葉は、一見信仰による救いを否定しているように見えるが、そうではない。
信仰のない行いに救いはないが、信仰があるなら行いも伴うというのがこの箇所でヤコブが伝えたかったことだ。

わたしたちが本当に神さまを愛し、いつでもキリストとともに歩んでいるなら、罪の中に思わないし、神や人にもっと仕えたいと思うことや、福音を他の人に伝えたいと願うのは当然のことだ。
聖書の言葉は、そういう部分において一貫している。

パウロがコリントのクリスチャンたちに求めているのも、そういうこと。
ただ行いを正すことではなく、彼らが真っ当な信仰で神さまを愛することを願っている。
そして、そこに神さまとの関係があることによって、コリントの人たちに生き方や行動も変わっていくことに期待している。
それによって、もっと多くの人々が神さまを求めるようになると考えるから。

③ 私たちが不適合者のように見えたとしても
パウロは、例え自分が失格者だと罵られていても、あなたたちが心から神さまを愛し、神さまと繋がる者として生きられることを願っているという。

13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく、私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。

ここでパウロを失格者にするのは神さまではなく、コリントの人々。
コリントの人々にどう言われ、思われていても、あなたたちは神とともに歩むものであって欲しいということ。
不品行が正せていなかったら、パウロが厳しい処置を施すこともあるだろう。
でも、それによってコリントの人たちの中に気づきが起こり、彼らが神さまに立ち返るなら安いものだ。
パウロがなによりも願うことは、コリントの人たちが神さまとともに生きる者になるということ。
集まりを導く者として、それに勝る願い、喜びはないだろうと思う。
僕自身も、人からどのように思われるか、評価されるかはともかくとして、僕が関わる皆さんが神さまとともに歩むものであって欲しいと願っている。

パウロは、いつも通りのあいさつでこの手紙を締めくくっている。
しかし、これがパウロにとって最後の訪問になることをパウロは知っていた。
コリントの人たちはあまりわかっていなかっただろうが、パウロの周りにいた人たちも知っていた。
この後、パウロはエルサレムに戻り、そこでユダヤ人たちに捕らえられ、ローマに送られ、処刑されるのだ。
そのことを念頭に入れてこの手紙を読むと、パウロがどれほどコリントの人たちを思っていたのかがわかるような気がする。
その愛は、神さまが私たちを愛する愛と同じようなものだったと思う。
そして、神さまが私たちに求めているのも、パウロがコリントの人たちに求めていたことと同じだと思う。

私たちは、信仰に生きているだろうか?
神さまとの関係の中で生き、罪から離れ、人と神に仕えようとしているだろうか?
もう一度自分を顧みて、神さまを求めてみて欲しい。