創世記2:1-15 創世記2『神さまが創造した楽園』 2024/02/18 けんたろ
創世記 2:7-9、2:15-25
2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
2:25 そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
天地創造の中には人の創造についても触れられていましたが、2章では再び人の創造が描かれています。
これは、人類の創造が2回あったということではなく、最初に語られていたことの詳細がここで描かれているということになります。
つまり、2章の部分では「人」というものに焦点を当てて描かれていることです。
ここで、人には神の息が吹き込まれたと描かれています。
神の息とは霊であり、この時人は霊的な存在として創造されていました。
「霊的な存在」というのは、同じく霊的な存在である神さまとつながりを持つ者だったということ。
これこそ、人という存在が他の生物とは大きく違う部分でした。
① 東の方のエデン
最初の舞台はエデンの園と呼ばれる場所です。
イスラエルから見て東の方、4つの川が流れる地にエデンの園はあったとされます。
ここで描かれる4つの川の内の2つはティグリスとユーフラテス川なので、どうやらメソポタミヤの地域であることがわかります。
しかし、残り2つの川は今では存在していないが、古代にはティグリス・ユーフラテス川の下流に他にも川があったのではないかと言われます。
今は海の下になってしまっていることを考えると、かつてエデンとされていた場所は、今は海の底に沈んでしまったのかもしれません。
エデンの園は、楽園とされていて、私たちにとっては天国のモデルとも呼ぶべき場所。
そこにはたくさんの木が生えていて、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」という二つの木がありました。
② 善悪の知識の木
神さまは、アダムにこのように命じました。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
そこでは何を食べてもよく、神さまとともにいた私たちは事実上、何をしてもよかった。
ただ、一つのこと、中央にある2つの木の内の、「善悪の知識の木」から取って食べることを除いては…。
「命の木」は、その名まえから命を与える木だったことが想像できます。
この木から取って食べる限り、命が尽きることはなかったのでしょう。
しかし、「食べると必ず死ぬ」という木の方は、「命の木」に対する「死の木」ではなく、「善悪の知識の木」という名で呼ばれました。
そこには二つの理由があります。
一つは、この木の存在を通して人は善悪を知ることができたから。
つまり、神さまに従うことは善であり、背くことは悪だということ。
エデンの園では、善悪の知識の木から食べることだけが、神さまに背くことだったのです。
二つ目は、この木から取って食べた人という存在は、自らが神のようになろうとし、自分を善悪の基準にするようになったから。
これについては、創世記の3章以降で明らかにされていきます。
③ ふさわしい助け手
創世記ではもう一つ、最初の人アダムには、助け手としてエバが与えられたことが書かれています。
「助け手」という表現や「あばらを取って作った」という話から、女の存在が小さいように思われがちですが、原語の意味を受け取るとそうではないことがわかります。
エバは言ってみればアダムの半身であり、彼らが出会うまでは半分の存在でしかなかったということです。
だから、エバと出会ったアダムはこのように言います。
2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
さて、この箇所は結婚式のときにも読まれる部分なので、私たちは男女の個人的な関係の部分だけに注目してしまいがちです。
それも大切なことだとは思いますが、実はそれがここでのポイントではありません。
それでは、「人は独身の間は半人前であり、結婚しなければならない」みたいなことになりますよね。
実際そう思っているクリスチャンは少なくないですが、パウロは私のように独身でいて良いと言っています。
Ⅰコリ 7:8 結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
創世記で描かれる男性と女性の関係は、社会的な範囲で捉えることもできます。
つまり、この世界で男性と女性は一体となって生きているということです。
実際の働きや行動には適材適所というものはあるでしょうが、私たちはもっと一体となって生きていくように作られています。
どちらかがもう一方を支配したり、蔑んだり、排除したりすることは神さまの心ではありません。
役割に差があっても関係はフラットだし、互いに尊重し合って、愛し合って生きていくように、私たちは創造されていたのです。
そして、このようにも書かれています。
2:25 そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
これを性的な意味で受け取る解釈もありますが、聖書の全体像を見るとそれはポイントからずれているように思います。
ここでのポイントは、服などで自分を包み隠す必要がなかったということだと思います。
人は、互いにもっと正直に生きることができた。
隠さなければならないような、よこしまな心は持っていなかった。
私たちも、本来創造されていたように、こんな生き方をしたいものですね。