創世記 3:20-24 創世記5『与えられた希望』 2024/03/17 けんたろ

創世記 3:20-24
3:20 人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
3:22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
3:23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

これまでの復習をしておきましょう。

  1.  この世界は神さまによって創造されました。
  2. 神さまが創造した世界は完全で、素晴らしいものでした。
  3. 私たち人間も、神さまをこの世界に表現するような素晴らしい存在でした。
  4. しかし、人は神さまに背き、離れてしまいました。
  5. それによって人は、罪人となってしまったのです。
  6. 罪人となった人は、神さまとの正しい関係も、似姿としての状態も壊れ、この世界も壊れた状態になってしまった。

① 出がらしの人生

そして今日の箇所です。
罪人になった人は、楽園にいることはできなくなってしまいました。
そして、もうそこには戻ることができなくなってしまったのです。

3:23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

どれだけがんばっても、私たちが楽園に戻ることはできません。
もともと持っていた、神さまとの関係に戻ることはできなくなってしまったのです。
これが、生まれながらの私たちの状態です。

② 罪人と罪

ここで再確認しておきたいのですが、「罪人」というのは、罪を犯した人のことではなく、神さまに背き、神さまとの関係が壊れ、自分が神さまになって善悪を決めている状態を指す言葉です。
あえて言うなら、罪とは、人が神さまに背いた存在となってしまったことそのものです。
私たちはみんな、罪人として生まれてくるようになってしまったので、努力によって罪人でなくなることはできません。

罪人である私たちは、神さまとの関係が壊れているので、正しいことをすることができません。
そのため、道徳的にも宗教的にも罪の行動を犯してしまいます
これは罪か、罪ではないか」ということを気にします。
「これはやってもいいのか、ダメなのか」という質問をよく受けるのですが、実はこれにはあまり意味名がありません。
「私たちは罪人である」ということ自体が問題なのであって、その状態である限り、私たちは自分の善悪でしか物事を見ていないからです。
本質的な部分から、的外れになってしまっているのです。

③ 与えられた希望

こうして、人は罪人となり、神さまとの関係も自分自身も、またこの世界も壊れたものとなってしまいました。
とても絶望的な話ですが、これこそ私たちが生きる世界なのです。
しかし、神さまはこんな私たちに希望も残していました。
創世記の中には、2つの形でこの希望について約束されています。

ひとつは、人を罪人にして滅びの道へと進ませた悪魔のたくらみを阻止し、悪魔を滅ぼすという約束です。

創世記 3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

これは、神さまが蛇として現れた悪魔に対して下した裁きの言葉です。
ここにある、「女の子孫」とは、イエス・キリストのことです。
このまま読んでも意味は分かりにくいですが、「私は女の子孫である救い主を送り、おまえのたくらみを打ち砕く。おまえは反撃しようとするだろうがそれはかかとを打つ程度しかなく、救い主によっておまえのたくらみは打ち砕かれて、すべては覆されることになるだろう」と言うのです。

悪魔は、救い主を殺してイエスさまを十字架にかけて殺しますが、それこそキリストの救いを完成させ、イエスさまによって人の罪は贖われることになりました。
その時、悪魔の敗北が確定したのです。

もう一つは、「このキリストによって人の罪を覆い隠す」という約束です。
罪人となった人は、いちじくの葉を綴り合せて自分の罪を覆い隠そうとしました。
もちろんそれは成功しませんでしたが、神さまはご自身が殺した獣の皮によってアダムとエバを覆いました。

3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

これは、罪の贖いを象徴しています。
こうして、悪魔によって引き裂かれた人と神さまとの関係は修復され、人はもう一度神さまとの関係を築くことができるようになる。
その約束がどのように成就していくかという物語が、聖書の全編に流れる大きなテーマなのです。
そこにある希望がどれほど大きなものなのか、実はクリスチャンでさえ多くの人たちが知らないままでいるのは残念なことです。

私たちがその希望を味わい、周りの人たちにも伝えるということは、それほど複雑なことではありません。
私たちが、壊れていた神さまとの関係を修復し、その関係を心から味わって生きるということです。
私たちは、罪赦されて神さまとの関係を築けるようになったのに、神さまとの関係が壊れたままであるかのような生き方をしていないでしょうか?
罪を行いと認識して、罪の行動を起こさないように恐れながら生きてしまっていないでしょうか?

この世界はまだ壊れたままですし、神さまとの関係が壊れたままの人たちの方が多いこの世界ですから、現実は相変わらず厳しいのは確かです。
でも私たちは、この厳しい現実の世界を、神さまと共に生きていくことができるのです。
1人でも多くの方が、その喜びを味わえますように、心から祈ります。