創世記 4:16-26創世記7 『カインかセツか』 2024/04/07 けんたろ

創世記 4:16-26
4:16 カインは【主】の前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。
4:17 カインはその妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたので、息子の名にちなんで、その町をエノクと名づけた。
4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデはメフヤエルを生み、メフヤエルはメトシャエルを生み、メトシャエルはレメクを生んだ。
4:19 レメクは二人の妻を迎えた。一人の名はアダ、もう一人の名はツィラであった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
4:21 その弟の名はユバルであった。彼は竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった。
4:22 一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。トバル・カインの妹はナアマであった。
4:23 レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。
4:24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」
4:25 アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言った。
4:26 セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた。

先週は復活祭だったので少し空いてしまいましたが、創世記の続きです。
前回は、カインとアベルのお話しでしたね。
今日はカインがアベルを殺した後のことについて見ていきましょう。

① さすらい人カイン

アベルを殺してしまったカインは、その後アダムとエバがいたところから追放されて、さすらうことになると告げられました。
それに対してカインは、「その咎は私には大きすぎて負いきれません」と神さまに訴えました。

自分は弟を殺しておいて、自分はここを追放されたら殺されてしまうと嘆いているのですから、カインは自分の罪に対して悔い改めていたのだろうかと疑問に思ってしまいますね。
それでも神さまは、さすらうことになってもカインを守ると約束しました。

創世記 4:15 【主】は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」【主】は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。

これは、カインがさすらうことになっても神さまはカインとともにいるという言葉でもあったのです。
でも、聖書にはこう書かれています。

4:16 カインは【主】の前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。

カインは、「守りのしるし」だけを受け取って、結局神さまから離れていったのです。
自ら離れていく人たちを留めることはできません。
それどころか、カインのこの態度は神さまに対する逆恨みもいいところですね。

そんなカインの子孫のひとりに、レメクという人物がいます。
これは、カインの罪を色濃く受け継いだような人でした。

4:23 レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。
4:24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」

罪を犯したカインのような人物も神さまは守るという約束をしましたが、レメクに関してはそうではありません。
「レメクには七十七倍」というのは彼が勝手に言っていたことで、神さまの約束ではありません。
レメクは自分に対して危害を加える者には七十七倍にして返すと言うような乱暴者だったのです。
カインは、神さまの愛をあだで返し、その子孫はどんどん悪くなっていきました。
とても悲しい負の連鎖ですね。
これが、神さまから離れた人類の末路です。

② セツ

神さまの救いの計画は、いきなり前途多難な状態となりましたが、神さまは計画を諦めたわけではありませんでした。
アダムとエバには、カインとアベルの弟となるもう一人の男の子が生まれたのです。
アダムたちは、その子に「セツ」という名前をつけました。

セツというのは、「基礎」とか「土台」という意味があり、救いの計画の土台となる血筋が、セツから始まることになります。
セツに関しては、それほど多くのことが書かれていませんが、このような言葉が続いています。

4:26 セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた。

これは、セツが神さまを求め、神さまとともに歩んだ人だったことを意味しています。
翻訳によっては、「主に祈ることを始めた」という言葉もあります。
カインの末裔が神さまから離れ、神さまではなく自分たちの知恵や知識、力により頼み文明を築いていった一方で、セツたちは神さまを求めていったわけです。

③ カインかセツか

兄弟ではありますが、カインのような生き方と、セツのような生き方ははっきりを分かれていきます。
カインは、自分の力により頼み、セツは神さまにより頼むという生き方です。
皆さんはどちらの生き方を選ぶでしょうか?

私たちがどちらの生き方を選ぶべきかは、聖書を読んでいれば明確です。
カインではなく、セツのような生き方を神さまは求めているはずですね。
でも、実際には圧倒的多数がカインのような生き方を選びます。
クリスチャンではない人がそうなるのは当たり前な感じもしますが、神さまを信じてクリスチャンになったはずの人でも、実は神さまを信じていないということがあります。
ちょっと聞いた感じ、意味が分からないですが、教会に行ってキリスト教という宗教に所属することと、神さまとともに生きる、歩むということとは別のことなのです。
どれだけキリスト教の教義に精通して、その通りに振舞えても、神さまとともに生きていなければ意味がありません。

カインは、神さまの存在を知らなかったわけでも、信じていなかったわけでもないことに注意してください。
神さまと語り、神さまに訴え、神さまの護りまで約束されました。
それでも、カインは神さまから離れて生きる道を選んでしまったのです。

どうか、カインの道を選ばないでください。
カインの道は広い道で、力も強く、繁栄もします。
でも、本当に神さまからの祝福を得て、永遠の命へと繋がるのはセツの道なのです。
まだ間に合います。
主の名を呼び始めましょう。