エレミヤ書11章「律法による改革-古い契約から新しい契約へ-」2024/04/14 小西孝蔵

目次

1. 初めに―現代社会のコンプライアンス問題、前回の振り返り

・先週の男子会で厚見さんの話題提供→ドラマ「不適切にもほどがある」→現代社会のコンプライアンスの在り方(功罪)→結論として、究極のコンプラは、愛(神の愛と隣人愛)→男子会の後、新プロジェクトXの第1回番組で取り上げられたスカイツリー建設工事を連想→コンプラは、法令順守と訳されているが、語源は、柔軟性、弾力性という意味→スカイツリーの耐震設計の基本は、3本の足の土台と心柱にあり→揺れても倒れない構造、これこそが究極のコンプラの象徴→本日のエレミヤ11章に関連。
・前回のメッセージで取り上げたのは、エレミヤ1章のエレミヤの召命-まだ若いから(もう年だから)と言ってはいけませんという言葉。私たちも、それぞれ、神様に召され、神様の声に聞き従うことが求められている。自分には力がない、しかし、弱い時に強い、何故なら主の力が完全に現れるから。
・エレミヤは、バールの偶像を拝み、不正が横行していたユダの民に対して、神のもとに立ち帰るよう預言することを神から命じられた。本日は、その召命があってから5年目(前621年)にヨシュア王による宗教改革が行われ、20代そこそこの青年エレミヤが、これに参画した箇所を取り上げる。結論を言うと、ヨシヤ王が目指したのは、律法による改革、即ち、形を重視した古い契約だった。一方、エレミヤが神様から示されたのは、神のもとに悔い改める、心の律法、新しい契約だった。

2. ヨシヤ王の宗教改革とエレミヤの預言活動

〇エレミヤ11章「11:1主からエレミヤに臨んだ言葉は言う、 11:2「この契約の言葉を聞き、ユダの人々とエルサレムに住む者に告げよ。 11:3彼らに言え、イスラエルの神、主はこう仰せられる、この契約の言葉に従わない人は、のろわれる。11:4この契約は、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄のかまどの中から導き出した時に、彼らに命じたところのものである。・・・ 」

・「この契約」とは、出エジプトの際にモーセに与えられた申命記の律法のこと。歴代誌によると、ヨシヤ王が、長らく紛失していて神殿な中から発見された律法の書により宗教改革を断行した様子が記されている。エレミヤは、神から召命を受けてから5年目に、まだ、青年時代のただ中、ヨシヤ王の宗教改革に呼応する形で、イスラエルの民に対し神の言葉に聞き従うよう預言することを神から命じられた。

〇歴代誌下34章「34:18書記官シャパンはまた王に告げて、「祭司ヒルキヤはわたしに一つの書物を渡しました」と言い、シャパンはそれを王の前で読んだ。 34:19王はその律法の言葉を聞いて衣を裂いた。34:33ヨシヤはイスラエルの人々に属するすべての地から、憎むべきものをことごとく取り除き、イスラエルにいるすべての人をその神、主に仕えさせた。・・・」

・ヨシヤ王は、申命記の発見に感激して、律法の命令に従って、偶像を取り除き、礼拝の儀式を行うことにより、歴代の王が放置していた一大宗教改革を断行した。歴代誌によれば、特に、羊や牛のいけにえを祭壇に捧げるという「過越祭」の復活に注力した。

〇歴代誌下35章「35:18預言者サムエルの日からこのかた、イスラエルでこのような過越の祭を行ったことはなかった。またイスラエルの諸王のうちには、ヨシヤが、祭司、レビびと、・・・と共に行ったような過越の祭を行った者はひとりもなかった。

・エレミヤは、ヨシヤ王を助け、宗教改革を実行したが、彼は、形よりの内面を重視した。バールの偶像を拝んでいた民が心から悔い改めて、神の声に聞き従うことを要求した。

・余談だが、宗教改革は、古くて新しい問題。キリスト教は、原始キリスト教の時代からローマ帝国の国教になってからカトリック教会ができ、ルッターなどの宗教改革により、信仰のみによる救いが強調、しかし、今日、教会制度は存続している。

・律法による改革と言えば、日本の現代社会で言えば、腐敗や不正を一掃する政治改革もあるし、行財制改革、教育改革、経営改革、農政改革など、私自身も仕事で関わった様々な制度の改革がある。しかし、宗教改革にしても、社会の改革にしても、残念なことに、人の意識や心が変わらなければ、実効が上がらないのが現実。

・ヨシヤ王は、当時強大な支配力を及ぼしつつあったエジプトと戦おうとしてあっけなく命を落としてしまい、宗教改革は頓挫してしまう。歴代誌下によればエレミヤは、ヨシヤ王を悼んで、「哀歌」を読んだと記されている。後ろ盾を失ったエレミヤは、再び神から離反したエホヤキム王やゼデキヤ王が、以前にも増して、迫害を受けながら孤軍奮闘する。「悲哀」「孤独」の預言者と言われるゆえんである。(表紙のレンブラントの肖像画を参照)

〇エレミヤ11章「11:21それゆえ主はアナトテの人々についてこう言われる、彼らはあなたの命を取ろうと求めて言う、「主の名によって預言してはならない。それをするならば、あなたはわれわれの手にかかって死ぬであろう」
・エレミヤは、都であっても、郷里であっても容赦なく宗教改革を実行させた。そのため、郷里アナトテの祭司たちに命を狙われた。郷里の実家の先祖アビヤタルは、ダビデに仕え、後継者争いに加担したことでソロモンから追放された祭司であったが、その親戚筋に当たるアナトテの祭司たちからすれば、エレミヤは、恩をあだで返すようなもの。そこで彼らは、エレミヤを殺そうした。

〇エレミヤ11章「11:18主が知らせてくださったので、わたしはそれを知った。その時、あなたは彼らの悪しきわざをわたしに示された。11:19しかしわたしは、ほふられに行く、おとなしい小羊のようで、彼らがわたしを害しようと、計りごとをめぐらしているのを知らなかった。・・・」

・エレミヤの心境は、イザヤ書53章の言葉と同じ苦難の僕の姿にたとえられている。キリストの十字架の道を自ら体験し、救い主の姿を暗示しているように受け取られる。
エレミヤは、キリストのように、神に反逆するイスラエルの民から迫害を受け、来るべきエルサレムの滅亡を悲しむ。

・エレミヤは、制度や形式を変えるのではなく、神様に立ち帰って、直接神の声を聞きなさいと預言、文字通り、旧約から新約に橋渡しをする預言者。その預言は、エレミヤ31章に記されているので、先回りして、読んでみたい。

3. 律法による改革からキリストによる「新しい戒め」へ

1) 古い契約から新しい契約へ

〇エレミヤ書31章「31:31主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。 31:32この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。・・・31:33しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。・・・」

・神様との契約は、ギリシャ語で、「ディアセイケー」、神様が一方的に恵みとして下さる契約である。今日の民法で言う契約とは次元が異なるが、強いて言うと、民法のでいう「双務契約」(一方が契約違反すれば他方は破棄できる契約)ではなく、「片務契約」(贈与契約のように、当事者のどちらかが一方的に付与する契約)の性格をもつ。特に、キリストが私たちと結んで下さった新しい契約は、神の恵みにより与えられる契約。

〇ルカ22章「 22:20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」

・キリストご自身が最後の晩餐の席で弟子たちに、これを新しい契約と言われた。
キリストの十字架の贖いによる救いは、罪という負債を十字架にかけて帳消しにして下さった新しい契約。死をもっても償い切れない巨額の罪の借金を帳消しにして、罪の奴隷から解放して下さったことは何という恵みか。自分の行いによらず、ただ、神の憐みにより、対価を払うことなく一方的に義とされる恵みの契約(ディアセイケー)である。新しい契約については、エレミヤ書31章を読むときに、再度触れることにしたい。

2) 律法は無効になったのか?―神様の義、養育係の役割

・古い契約は、お蔵入りしてもいいのであろうか?モーセの十戒など律法による改革は無駄だったのか?神様との契約のなかには、旧約であっても、新約であっても神様の義と愛が示されている。申命記など、モーセの律法が発見されなかったとすれば、神から離れていた民は、自分の罪に気が付かなかったであろう。

・そもそも、人類がアダムとエバが善悪を知る木の実を食べて、神様から離れ、自分が神となって原罪を背負った。モーセの律法は、神から離反したイスラエルの民が罪を自覚して神に立ち帰るために、神から与えられたもの。パウロも「律法は、私たちをキリストの下へ導く養育係である」(ガラテヤ書4章24節)と言っている。

・旧約の律法は、子供時代の親のしつけ、或いは、校則や学生寮の規則のようなもの。
小学校の時、父親に逆らって殴られたこと3度。今の時代、殴ることを奨励・許容してしてないが、後になって、親に逆らった自分が悪かったことに気づく。愛の鞭として受け止めている。学生寮で朝拝や日曜礼拝等の寮則も、社会に出てから信仰生活を維持して行くうえで大いに役立っている。このように旧約としての律法は、我々を悔い改めに導かれるための養育係の役目を果たしてくれる。

3) 新しい戒めの意味ー神様の愛と人への愛

・エレミヤは、モーセの律法によるヨシヤ王の宗教改革に参加したが、彼は、神様から悔い改めて聞き従う心の改革を命じられた。エレミヤは、、キリストに直接出会うことはなかったが、神様の声に聞き従い、キリストを指し示し続けた。

・パリサイ人たちがイエスに律法のうちどれが最も大切か、イエスに尋ねたところ、イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして汝の神を愛しなさい」という第一の戒めと「己と同じように、汝の隣人を愛しなさい」という第2の戒めにあげられた。

・この二つをさらに要約すると、こうも言われた。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)

・パウロは、人を愛することによって、キリストの律法は成就すると説いている。「13:8人を愛する者は、律法を全うするのである。・・・どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。(ロマ書13章8節)

・冒頭に、究極のコンプライアンスは、愛である、また、揺れても倒れない土台であると述べたが、このキリストの新しい戒めこそが究極のコンプライアンスである。

・私たちには、キリストの十字架と復活によって新しい契約が与えられている。旧約の過越しの祭りの直後に初穂の祭りが行われたように、私たちは、イースターをお祝いしている。初穂として蘇られたキリストをわが内にお迎えすればよい。キリストの十字架と共に古い自分に死に、復活されたキリストと共に新しい自分に生きる。

〇ガラテア書3章「 3:26あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。 3:27キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」
・自分の力で律法を守るのではなく、聖霊の働きによって、人を愛し、善を行うことができる。そのことを改めて感謝し、神のみ名を賛美しようではありませんか。  

    (祈り)