創世記 7:1-24 創世記11 『裁きと救い』 2024/05/12 けんたろ

創世記 7:1-24
7:1 主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。
7:2 あなたはすべての清い獣の中から雄と雌とを七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌とを二つずつ取り、
7:3 また空の鳥の中から雄と雌とを七つずつ取って、その種類が全地のおもてに生き残るようにしなさい。
7:4 七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。
7:5 ノアはすべて主が命じられたようにした。

7:21 地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。
7:22 すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。
7:23 地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。
7:24 水は百五十日のあいだ地上にみなぎった。

① 救いの舟

洪水は神さまの裁き、箱舟は救いを表しています。
このことに関して、とてもネガティブに受け取る人たちがいます。
2014年に公開された『ノア 約束の舟』という映画を観て、その演出に驚いたのは、助けを求めて来る人々を、ノアが蹴落とす姿でした。
その演出の酷さに思わず笑ってしまったのですが、同時に聖書を知らない人たちは、救いに対してこういうイメージを持っているのかもしれないと思いました。
確かに聖書には、一人でも多くの人たちを救おうとするノアの姿は描かれていません。
でも、ノアが舟を作っていることは、多くの人たちが知っていました。
しかし、誰もその舟に乗ろうとしたり、『自分も作ろう』と思う人はいなかったのです。

全ての人に開かれているのが、神さまの救いです。
問題は、すべての人が、それを求めるわけではないということです。
ノアも多くの人たちに声をかけ、「一緒に舟に乗ろう」と誘ったのではないでしょうか。
しかし、残念ながらほとんどの人がそれを受け入れなかったのです。
イエスさまは言っています。

マタイ 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

この「狭い門」という言葉も間違えて受け止められていることが多いですが、救いの門は誰にでも開かれている門です。
しかし、狭い門であるために、多くの人たちが目にも留めません。
広い滅びの道を選んでしまうのです。

救いは誰にでも開かれています。
「限られた人しか救いの箱舟に乗ることができなかった」ということではなく、その箱舟に乗りさえすれば誰でも救われたのです。
事実、別に神さまの目に適ったわけではなかったノアの家族たちも、箱舟に乗ったために救われました。
しかし、ノアとその家族だけしか乗りませんでした。
「裁きなど起こらない」と高を括っていたのでしょうか。
あるいは、彼らのプライドがジャマをしたのかもしれません。

② 閉ざされた戸

そうは言っても、ものすごい雨が降って水かさが増して来たら、人々は舟を持っているノアに助けを求めにきていたのではないかと考える人もいます。

しかし、洪水は突然起こったようです。
「その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が拓かれた(創世記7:10)」と表現されています。
また、例え助けを求めてきた人たちがいたとしても、彼らには助けることができない理由がありました。
それは、舟の構造上、乗り込むときに扉を閉ざさなければならなかったからです。
閉ざさなければ、天からの雨によって舟の中は水であふれ、沈んでしまったことでしょう。

創世記 7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、【主】は彼のうしろの戸を閉ざされた。

その扉は神さまによって閉ざされ、他の人たちが入ってくることはできなかったのです。
裁きの時は、こんな風に突然起こります。
そして、救いの舟にはその前に乗らなければならないのです。
イエスさま、弟子たちにはこんな話をしています。

マタイ 24:37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
24:38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
24:39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。

③ 箱舟は信仰の船

箱舟は、帆を張ってどこかに向かったり、舵を取って向きを変えたりすることができるような船ではありませんでした。
まぁ、造船技術なんてなかった時代、ノアと子どもたちだけで作った舟に、そんな機能をつけることはそもそもできなかったでしょう。
つまり、箱舟は浮かんでいるだけだったのです。

クリスチャンとして生きることは、ある意味では、そういうものなのだということが言えるかもしれません。
別に乗っているだけで何もしないということではありませんが、自分の意志ではどこかに向かうことができません。
イエスさまという箱舟に乗ったら、後は神さまの導きに任せて進んでいく。
人生の中で雨が降り続け、嵐になり、やがて地が水の底に沈んで波が高くなってきたら、不安になってくることもあります。

「本当に大丈夫なんだろうか?」
「こんな箱では壊れてしまうのではないか?」
そんな時には、イエスさまが僕たちと共にいるということを思い出して下さい。

マルコ 4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

目の前に広がる状況がどれほど絶望的に見えたとしても、僕たちは恐れる必要がありません。
舟が揺れても、壊れてしまいそうでも、イエスさまを信じてともにいるなら、僕たちは決して溺れる事はありません。
箱舟に乗るなら、絶対に救われるというのが神さまの約束だからです。