創世記 8:1-22 創世記12 『人の心が思い図ること』 2024/05/18 けんたろ

創世記 8:1-22
8:1 神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。すると水は引き始めた。
8:2 大水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨がとどめられた。
8:3 水は、しだいに地の上から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始めた。
8:4 箱舟は、第七の月の十七日にアララテの山地にとどまった。
8:5 一方、水は第十の月まで減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。

8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。
8:21 【主】は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で【主】はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。
8:22 この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」

目次

① アララテ山

いよいよ洪水は終わり、水が引いて行きました。
ノアの箱舟は、アララテの山地に留まったと書かれています。

アララテ山は現在のトルコにあるとされています。
そこでは箱舟の跡が見つかったと考える人たちもいます。
でも、実際にはそれが箱舟だったことを表わす証拠は何もなく、地形がたまたま船のような形に見えるだけというのが現在言われていることです。

アララテ山というその山の名称も、実は11世紀につけられたもので、それが本当に聖書に書かれている場所かどうかということも、実際にはわかりません。
ここには、実際の場所や考古学的な真理よりも大切なメッセージがあります。
それは、この出来事が新しい創造を象徴しているということです。

神さまは、一度前の世界を破壊しました。
そして、ここから新たな世界を始めようとしているのです。

② 烏と鳩

雨が止んでから地上に降りるまでの間に、ノアは鳥を放って地上の様子をはかります。
これにはどんな意味があるのでしょう?
実はこれは、当時の船乗りたちの習慣から来ているのではないかと言われています。

ノアは、最初に烏を放ちました(7節)。
これによって分るのは、地面がある方向です。
この時は、乾いた地面が近くになかったため、烏は戻ってきてしまいました。

次にノアは3度に渡って烏より小さい鳩を放ちました(8、10、12節)。
これによって、陸地までの距離がわかります。
この場合は、水がどれだけ引いたかということになりますね。
2回目に放たれた鳩は、オリーブの葉を持って帰ります。
オリーブは標高が低い血に生えている木なので、水面はかなり下がってきたことがわかります。
そして、最後には鳩は戻りませんでした。
乾いた地が広がっていたからです。
こうしてノア達は、地上に降りることができました。

③ ノアのささげ物

洪水が地上を覆ってから、ノア達が地上に降りるまでは1年ほどの月日が経っていました。
地上に降りたノアが真っ先にしたことがあります。
それは、祭壇を作って礼拝を捧げることです。

8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。

実は、これは聖書の中で最初に出てくる礼拝の姿です。
ここには全焼のささげ物という言葉が出てきますが、これが律法に記されるようになるはモーセの頃ですから、ずっと後のことです。
ノアは規定に従ってではなく、自然な心から神さまを思ってこのささげ物を捧げたのです。

この時のノアの行動だけにかかわらず、人は古代から神さまに生贄を捧げました。
生贄が、神さまの心をなだめると信じていたのです。
不思議なことに、これは世界的に共通している礼拝方法です。

神さまは、ノアのこの礼拝する心を受け入れ、この全焼のささげ物を受け取りました。
このささげ物を受け取ることによって、神さまはこのように考えられたと記されています。

8:21 【主】は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で【主】はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。
8:22 この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」

「心の中で」と書かれていますから、これはノアに向けて言われたことだはありません。
創世記の著者が、聖霊によってこれを教えられたのでしょう。

「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼い時から悪であるからだ。」
でもこれ、少しおかしな理屈ではありませんか?
幼い時から悪であるなら、むしろ滅ぼしてしまうのが当然ではないでしょうか?
ここで重要なのは、神さまが洪水を起こした動機です。

創世記 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして【主】は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

では、それによって世界は良くなったのかというと、何も変わりませんでした。
リセットしても、神さまとの関係が壊れた罪人の状態である限り、人は変わらないのです。
ノアのささげ物を通して、神さまはそのことを思い出しました。
そして、人を変えるために世界をリセットするという手段はもう使わないと約束しました。

では、どうすれば人は変わるのでしょう?
神さまはその後も、律法、王、預言者など様々な方法を使って人を導こうとしますが、人は変わりません。
しかし、本当はどうすればいいのか、神さまは知っていたのです。
それは、神さまのひとり子であるイエス・キリスト自身が、なだめのささげ物として十字架にかかることでした。

人は、悪ではなくなったから救われるのではありません。
人は幼い時から悪である「にもかかわらず」、救いの機会を与えられます。
ノアのささげ物は、神さまに…というよりも私たちに、そのことを思い出させてくれる出来事だったのです。