ヘブル11:1「神様の前に単純でチョロいことは大事」 2024/05/26 山本昇平

自分は2006年から神様に言われて伝道していますが、

東京にきたタイミングで、もちろん転職で東京にきたわけですが、

なぜ20年ぶりに東京に来ることになったのか、を考えていました。

その中で去年の多分この教会にきたタイミングぐらいですが、

理由の一つは外での伝道を復活させる、ということを神様が願っていると

受け取りました。

それで先日2回目となりますが、新宿アルタ前で賛美とメッセージの伝道をしてきました。

久しぶりの外での伝道でしたが、

爽快感、いつも生活の中で感じてる、何かヌメッとした感じが吹き飛び

神の国を感じました。

自由、内側に力を感じる世界、神が身近に感じる世界、おそれがない世界

そんなことをずっと感じて2006-2016まで伝道してきたのを思い出しました。

また久しぶりに一番初めに駅前に立って伝道したことを思い出しました。

 天理教と遭遇した話(神様の前に単純でちょろいことは重要)

 ビーチ伝道 右翼の話 (神様の前に単純でちょろいことは重要)
https://ameblo.jp/shodelicha/entry-12597847117.html

今回は、こんな伝道をしましょうという話ではなくあくまで、

神様に言われて信じていくと、そこに神の国がきて、何かが起こる、

という話です。

信仰と神の国の話です。

1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。

(ヘブル11:1)
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この部分のキングジェームズバージョンの英訳を見てみると、

Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen

と書いてあり、より原語に直訳的です。

つまり、信仰は望んでいることの「実体」であり、見えないものの「証拠」ということです。

わたしたちが通常考える「実体」や「証拠」は、

すでに目に見えるものであり、なにかすでに起こってることです。

それは見えたり、聞こえたり、触れたり、するものです。

「俺は海賊王になる!」

とは言ってみても、通常は、すでに海賊「王子」ぐらいになっているとか、

家来が五千人いるとか、

そのようなことがなければ誰も信じようとしません。

現在の目に見える状態を「実体」や「証拠」だと人はわたしたちは思っているからです。

しかし、信仰の世界、神の国の世界においては、

目に見えないが望んでいる信仰こそ「実体」なのです。

信仰が真の「現実」であって、

今目に見える望んでいることの反対の現実は信仰によって

覆される一時的な「仮」の現実でしかありません。

なので、信仰にあって、

癒されない病い、修復できない人間関係、解決できないさまざまな問題は、

「仮」の現実でしかないので、

信仰者には希望がある、ということです。

アブラハムの妻サラはそのような信仰を持ってました。

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サラは99歳で第一子を妊娠しました。

想像してほしいのですが、有史以来の全人類を合わせても

99歳の女性から子どもが生まれると信じられる人が一体何人いるでしょうか?

サラ自身最初は笑ってしまったのですが、のちには悔い改めて信じたのですから、相当な女性です。

さすがはアブラハムの妻といったところでしょうか?

サラがどのように信じたかは、ここの聖書箇所に書いてある通りです。

“彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた”

主は約束を必ず守る方、真実な方、と考えた、これが鍵です。

わたしたちすべてに神のみことばの約束が与えられていますが、

それが実現するかどうかは、神を真実な方、と考えるかどうかに

かかっています。

そのようにサラが考えた瞬間、その信仰は実体となり、また証拠となり、

「それ以外のすべてのものがその信仰に従い」、サラの体は子を宿すための

あらゆる肉体的力を手に入れました。

また、アブラハム自身もその信仰で、死んだも同然の体の中に神の力が働き、

サラと共に子を宿すための力が与えられました。

ここで一つのことがわかります。

神のことばに本当に信頼し、そのことばはそうなる、と心から思える時に、

それ以外のみことばに反していたものがその信仰に従う、ということです。

わたしたちがみことばに信頼するときにそこに神の法則が適用されます。

つまりそこが神の国になるんですよね。

神の国とは神の支配される領域です。

わたしたちが神に信頼し、神を王と崇める領域に神の国はきます。

仕事で主を王としてれば、仕事に神の国がきます
人間関係で主を王としていれば、人間関係に神の国がきます
財産の領域で資産ではなく主を王としてれば、そこに神の国がきます

マタイ6:33 だから、神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

というのはそういう意味です

神に従うとき、わたしたちは追うものではなく、追われるもの、恵と真がわたしたちを追うようになります

神の国とその義というのはセットです。

反対は、自分の国と自分の義です。

自分の判断が一番正しい、と思うところ、そこが自分の国です。

一方、神とみことばが一番正しい、とするところそこは神の国です。

みことば、みことばって、本当にみことばを信頼するだけで、このエベレストのような問題をクリアできますか?と思われるかもしれません。

クライミングの話(アイゼン、ピッケル プロで2日、2時間40分)

離島伝道の話

「わたしは航路を開く、そこには真珠がある」

毎日、誰を一番とし誰に信頼していきますか?

わたしたちの信仰が成長するためにキリストを見上げていきましょう。

キリストにとっては、神のすべてのことばを100%信じることは、

わたしたちが息を吸うよりも自然なことでした。

それは彼が100%神の国に生きていたからです。

神の国の文化、法則しかある意味知らないわけです。

なのでキリストはわたしたちの不信仰に驚かれるのです。

わたしたちはキリストの信仰にびっくりしますが、

神の子もわたしたちの不信仰にびっくりされます。

両者とも「ありえない」と思うわけです。

信仰の道は間違いなく困難がありますが、それはそんな困難がどうでも良くなるほどの報いが必ずある道でもあります。

主は信頼するものを決して失望させられることはありません。

神様の前に「チョロく」ありましょう

単純な信仰だけで必要です

信仰というときに、主はわたしたちの知識も知恵も学歴も職歴も全く見ていません

わたしたちが子として親を深く信頼しているかどうか、

他のすべての目に見える状況、耳に聞こえる状況、過去のトラウマ以上に

それでも父を信じてくれるか、というところをご覧になっています。

主はわたしたちの持ち物ではなく、心が欲しいのです。

何かうちに燃えるものを感じたら、主が語っていると思います。
 
みなさんの仕方で、みなさんの信仰と共に

神の国が広がっていきますように
昇平