エレミヤ15章 「孤独の『嘆き』から主と共にいる『喜び』へ」 ―預言者エレミヤの壮年時代- 2024/06/16 小西孝蔵

  • これまでの振り返り

・(初めに)母の介護、神様に対して家族にも感謝してくれる母が突然、自暴自棄になることがある。「何で私を放っておくの。誰も側にいてくれない。死んだほうがまし」と。認知症が進み、死を目前に、孤独感に襲われるのでは。自分もやがてそうなるのかという人生勉強に。孤独の預言者エレミヤの心境に通じるところも。 

(第1回)青年時代の召命(エレミヤ1章)→ (第2回)ヨシヤ王の宗教改革への参画(エレミヤ11章)→(第3回以降)ヨシヤ王の死後、エホヤキム王の下での迫害(15章~26章)

  • 壮年時代のエレミヤと神からの厳しい預言

・エレミヤの召命(前626)のあと、ヨシヤ王の宗教改革(前621)を経て、ヨシヤ王の死(609年)までの間、エレミヤは、ヨシュア王の下で17年間仕えた。その後、エホヤキム王が就任(前608)し、彼が死ぬ時(前598)まで、エホヤキム王の下で10年間過ごした。その翌年、エルサレムが陥落し、第1回バビロン捕囚(前597)が起きた。エレミヤの召命から約30年が経ったことになる。(年表参照)

・20代の青年時代に召命を受けたとすると、15章でのエレミヤは、40~50くらいの壮年。26章までが概ね壮年時代。サラリーマンで言えば、教会の多くの男性のように働き盛り。エレミヤ書を青年期、壮年期、熟年期と3つに分けて読み進めると、我々サラリーマンの苦労とエレミヤの労苦が重なる部分が多いので、興味深い。

〇エレミヤ書15:1主はわたしに言われた、「たといモーセとサムエルとがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民を顧みない。・・ 15:2・・彼らに言いなさい、『主はこう仰せられる、疫病に定められた者は疫病に、つるぎに定められた者はつるぎに、ききんに定められた者はききんに、捕囚に定められた者は捕囚に行く』。

・偶像崇拝で神から離反したユダの民に対する神様からの裁きの警告が発せられる。エホヤキム王は、父のヨシヤ王と真逆で、神の前にバールを偶像崇拝し、人殺し、姦淫、重税、子供を火で焼き殺すなど悪行を行った。ヨシヤ王の前のマナセ王が神の間に正しく歩んだ父ヒゼキヤと正反対の悪玉であったと同じように。これらの罪に対し、神は、剣と飢餓とバビロンへの捕囚によってユダヤの王と民を裁かれる。

・旧約は、神様の裁きの警告が度繰り返されるので、読んでいて、怖いくらい。それは、神様の義と愛の2面性の現れ。妬む神、罪を怒る反面、怒るのに遅く、悔い改めるものを赦す恵みの神でもある。旧約では、義の側面が強調されているが、このことにより、新約において、キリストによる赦しの有難さがよくわかる。

  • エレミヤの嘆きの告白

〇エレミヤ15章「15:10ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、皆わたしをのろう。 」                 

・エレミヤの嘆きの告白が、20章までに6~7回繰り返し出てくる。表紙のレンブラントの絵画参照。うち2回は、母の胎から生まれてきたことを呪う表現で、ヨブの告白と類似している(ヨブ記3章1~3節)。ヨブ記の編集時期とエレミヤの時代はいずれもバビロン捕囚期と言われる。次回以降に取り上げるエレミヤ20と26章では、具体的な迫害の様子が記されている。エレミヤは神の言葉に忠実に従って預言しているにもかかわらず、人々から憎まれ、迫害を受け、命まで狙われている。何故、こんな目に会うのか、神様に訴えかけているのは、痛いほどよくわかる。

・最近亡くなられた詩人であり画家の星野富弘さんが鉄棒から落下した事故で全身まひになった時に、母親の介護の最中に、母親に当たり散らし、自分を生んだことを呪ったということを思い出す。彼は、その後母親の愛を深く知ることになる。

・エレミヤは、また、生涯独身を命ぜられる(次章)。それは、エルサレム滅亡により、家族が悲惨な目に会わないようにするため、神の裁きの預言を目に見える形で示す象徴。このことが、エレミヤの孤独感を倍増させたのではないか。(私自身は、孤独に絶えられない人間。家内に悩みを打ち明けて、助けられたことが何度もあった。)

〇詩編22篇「22:1わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、私の嘆きの言葉を聞かれないのですか。22:2わが神よ、私が昼よばわってもあなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。」

・ダビデが敵から迫害を受けて窮地に追い込まれた時、神に訴えた言葉が詩編22篇で、この告白は、エレミヤの告白と類似。そしてこの言葉は、キリストの十字架上の告白でもある。十字架は、罪人を救うため、神の義と愛の象徴。詩編22篇は、とても大事な箇所なので、次回(エレミヤ20,23章)にもう一度取り上げたい。

・サラリーマン、特に中間管理職はつらい、上と下の間に立って責任を負わされる。男はつらいよ、女性もつらいよ。ボヤキだけでなく、嘆きと悲鳴に近い。私は、神の命令に従って迫害を受けたエレミヤには足もとにも及ばない。でも、仕事の重圧でつぶれそうになり、もう駄目だ、孤独の中で神様に何とかしてくださいと訴えたことが何度もあった。毎朝、職場に入る間に一言、「神様、今日も助けてください」と祈らざるを得なかった思い出がある。余談ですが、人によっては、出勤前に聞く曲として、「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じぬくこと、だめになりそうな時、それが一番大事」の歌を聞いて自分の気持ちを鼓舞している人が多いと聞く。私の場合は、神様にSOSを求める祈りに応えて窮地から守り、救い出してくださった。

・余談が続くが、エレミヤと王との関係は、サラリーマンと上司との関係をなぞらられる。ヨシヤ王の下で宗教改革に取り組んでいたはずが、ヨシヤ王の不慮の死により、後継者の悪玉エホヤキムの下で痛めつけられる羽目に。サラリーマンもいい上司か、ひどい上司かによって天と地との違いが出ることもある。上司が変わるだけで後ろ盾がなり、四面楚歌になることもサラリーマンの現実。

4.嘆きから喜びへ(現実は、嘆きと喜びの交錯)

・エレミヤが窮地に会った時にも、神様は、エレミヤを堅固な青銅の壁で敵から守られる。若き日に召命を受けた時に示された言葉と同じ。神様は、限りない愛をもって導いて下さる。主は、この世の王、主権者として圧倒的な力を有しておられる。

〇エレミヤ15章「15:20わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。」

・エレミヤの告白は、嘆きでは終わらない。神様を信頼し続けると、そこに神の救い、堅い守りがある。嘆きと賛美が交錯しつつも、最後は賛美に変わる。

〇エレミヤ書15章「15:16わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」

・「主の」み言葉を食べるという表現に注目したい。この表現は、エゼキエル書などで使われているが、詩編119篇にも使われている。詩編の中で一番長いのが、119篇(全体で176節)。エレミヤは、この詩編も口ずさんでいたのではないか。

〇詩編119篇「119:103あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。・・・119:105あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。・・・119:164日に七度あなたを賛美します。

・毎日のみ言葉は、3度の食事をとるように生きていく糧、心の糧でとなる。朝のみ言葉と祈りが一日を左右する。米国でベストセラーになったセーラヤングさんのデボーションブックは、聖句と祈りが一体になっている。特に、毎日、詩編が繰り返し引用されている。主の前における内面の告白と賛美の繰り返し。改めて、日々み言葉の糧(daily bread)受けることが大切であることを教えられる。

・み言葉は、聖書では、単なる言葉だけでなく、神様の知恵と力、神様ご自身を表すことが多い。新約聖書、ヨハネによる福音書1章では、ギリシャ語でロゴスと表現され、イエスご自身を指している。ロゴスは、旧約のみ言葉の概念と新約のキリストのいのちを融合する言葉。「私はいのちのパン」(6章34節)「このパンを食べるならその人は永遠に生きる」(6章51節)、「私の肉を食べるものは、私のうちにあり、私も又その人のうちにいる。」(6章56節)

・いのちのパンに関して、マザーテレサが残された言葉に次のような言葉があります。「キリストは、ご自身を生命のパンに変えられました。そのパンに養われた私たちが、今後は、自分自身を他人に与えることに必要な力を得るのです。」「ご聖体(キリストの体)を私たちの心身の糧としているなら、貧しい人々の中にキリストを見出し、彼らをキリストとして愛し、彼らに仕えることは難しくない」キリストに在る「いのちのパン」は、人に与える喜びとなる。

 

5.「私は、あなたを一人にはしない」キリストの愛に感謝

・本日のタイトルにあるように、エレミヤと通じて、孤独の『嘆き』から主と共にいる『喜び』について学んだ。キリストが十字架に掛かられる前に、弟子たちに残された遺言というべき言葉を残された。一人で窮地に立たされた時でも、私たちを愛し、共に責任を負って下さるキリスト、聖霊ご自身が一緒にいて下さる。

〇ヨハネによる福音書14章14:16わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 14:17それは真理の御霊である。・・・。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。14:18わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

・私たちも、どんなつらい時でも、孤独な時でも、私たちの側にいて重荷を担って下さるキリストの愛に感謝し、主のみ名を賛美しようではありませんか。そして主と共に常に喜び、孤独や悩みにある隣人に寄り添っていこうではありませんか。「主において常に喜びなさい、重ねて言いますが、喜びなさい」(ピリピ4章4節)

                            

(次回の聖書箇所)エレミヤ書19章、20章、23章 

⇒(次々回)7章、26章 ⇒ (その次) 27~29章 ⇒(その次)30,31章

〇艱難から希望へ-聖霊による神の愛

〇詩編22篇

〇ヨハネによる福音書16章{16:31イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。 16:32見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。 16:33これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 

〇ローマ人への手紙5章「5:3それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 5:4忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 5:5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 

・パウロも耐えがたいような苦難にも何度も遭遇している。でも彼は、聖霊の働き、キリストの愛を固く信じている。キリストの愛に依って救い出されている。

・老人の寂しさについて、マザーテレサが英国の老人ホームを訪れた時のエピソード