ヨブ記 3~6章 (3:1-9)ヨブ記2 『正しさが問われる』 2024/07/07 けんたろ

ヨブ記 3~6章(3:1-9)
3:1 そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。
3:2 ヨブは言った。
3:3 私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。
3:4 その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。
3:5 闇と暗黒がその日を取り戻し、雲がその上にとどまれ。昼を薄暗くするものも、その日を脅かせ。
3:6 その夜は、暗闇が奪い取るように。その日は、年の日々のうちで喜ばないように。月の日数のうちにも入れないように。
3:7 見よ、その夜は不妊となるように。その夜には喜びの声も起こらないように。
3:8 日を呪う者たちが、レビヤタンを巧みに呼び起こす者たちが、その日に呪いをかけるように。
3:9 その夜明けの星は暗くなれ。光を待っても、それはなく、暁のまばたきを見ることがないように。

ヨブ記から2回目のメッセージです。
前回はヨブに突如訪れた悲劇についてお話しました。
ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」いわゆる善人でした。
そんなヨブが、一日の内に全財産を失い、子どもたちを全て失い、自分の健康も失い、妻ら罵られるという状況に陥ります。

私たちは、心のどこかで「善い人は良い人生を送るべきだ」という思いがあります。
他の人のことは分からなくても、自分に悲劇が訪れた時には、「こんなにがんばって、悪いこともせずにまじめに生きて来たのに、どうしてこんな目に遭うのだ」と思ったりするものではないでしょうか。
ヨブ記はまさにそこに焦点を当てた物語です。

さて、2章の最後では、そんな悲劇に見舞われたヨブの元に友人たちが訪れます。

ヨブ 2:11 さて、ヨブの三人の友が、ヨブに降りかかったこれらすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分のところから訪ねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに同情し、慰めようと、互いに打ち合わせて来た。

持つべきものは友ですね。
しかし、そんな友人たちも言葉を失い、ヨブには何も声を掛けられなかったというところから、今日の箇所へと繋がってきます。

① 生まれた日を呪う

先ほど読んだ箇所で、ヨブは自分の生まれた日を呪ったと書かれていました。
平たく言うと、「生まれてなんて来なければよかった」という思いです。
子どもに言われると親がしんどいやつですね。
でも、こんな風に言いたくなる気持ちもわかります。
ヨブとしては、友人たちが来てくれて気持ちが緩んだ部分もあるのでしょう。

これまで文句ひとつ言ってはこなかったけれど、友人たちが慰めるために来てくれたなら、少しくらい弱音を吐かせて欲しい。
それで何が変わるわけではないけれど、そんなことを言ったって困らせるだけだろうけれど、愚痴の一つも言わないではいられないのだ。
そんな気持ちだったかもしれません。
しかし、ここからヨブの新たな試練が始まるのです。

② 友人たちの正論

最初に口を開いたのは、テマン人エリファズでした。

ヨブ 4:1 すると、テマン人エリファズが話し始めた。
4:2 もし、人があなたにことばを投げかけたら、あなたはそれに耐えられるか。しかし、だれが語らないでいられるだろう。
4:3 見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけてきた。
4:4 あなたのことばは、つまずいた者を起こし、くずおれる膝をしっかりさせてきた。
4:5 しかし今、これがあなたに及ぶと、あなたはそれに耐えられない。これがあなたに至ると、あなたはおじ惑う。
4:6 あなたの敬虔さは、あなたの確信ではないか。あなたの誠実さは、あなたの望みではないか。
4:7 さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。

最初の言葉を見ると、少し怒ってるのかなという感じもします。
「こんなことを言うべきではないのかもしれないが、言わないではいられない」という感じです。
そしてこの言葉で、ヨブはこれまで他の人を助け、励ましてきたということもわかります。
でも、「人にはあんな風に言っておいて、自分に苦難が訪れたらそんな簡単に折れてしまうのか」と、言うわけです。
ヨブがどんなことを言って人を励ましていたのかはわかりませんが、正論ではありますね。
そして、もしかするとヨブに発破をかけて立ち上がらせようと思っていたのかもしれません。
でも、今の呼ぶにはあまりに鋭く、厳しい言葉でした。
その中でもえぐるような言葉としてこんなことを言っています。

ヨブ 5:6 まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。
5:7 まことに、人は労苦のために生まれる。火花が上に向かって飛ぶように。
5:8 私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。

「火のないところに煙は立たない。あなたに罪があるからあなたは不幸になったのだ」というのです。
これは、先ほどの「善い人は良い人生を送るべきだ」という言葉の裏返しです。
分からなくはないですが、これはヨブに当てはまる言葉ではありませんでした。
そして、もし当てはまるとしても、今言うべき言葉ではなかったと思います。

③ 正しさが問われている

ヨブはこのように言っています。

ヨブ 6:25 真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。
6:26 ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。
6:27 あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す。
6:28 今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。
6:29 思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。
6:30 私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。

「私があなたに何をしたというんですか? どうしてそんなことを言うんですか? そんなことを言わないで下さいよ。」というヨブの嘆きが聞こえてくるようです。
私たちは時として、ヨブの友人たちのようです。
今痛み、苦しみ、辛い思いをしている人たちに正論をぶつけてしまいがちです。
でもそれは、相手にとって何の助けにもなりません。
ヨブは、助けてくれと言っているわけでもありませんでした。
ただ、その嘆きに耳を傾けてくれれば、いくらかその心は落ち着いたかもしれない。

そしてもう一つ、正論は相手を頑なにしてしまいます。
この時友人たちが、ただヨブを受け入れて慰めていたら、ヨブは「自分にも何か問題があったかもしれない」と自分自身で思っていたかもしれません。
しかし「悔い改めろ」と言われると、自己防衛的になってしまって、自らの間違いを認められなくなってしまいます。
この後のヨブには、自分の正しさを主張するようになっていきます。

私たちは、痛みを抱えた人と接するとき、どのように振舞っているでしょう?
ヨブの友人たちのようになってはいないでしょうか?
自分自身を省みながら、気をつけて行きたいものですね。