ヨブ記 7~9章(7:1-10)ヨブ記3 『人とは何ものなのでしょう?』2024/07/14 けんたろ

ヨブ記 7~章(7:1-10)
7:1 地上の人間には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。
7:2 日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち焦がれる日雇い人のように、
7:3 そのように、私には徒労の月日が割り当てられ、労苦の夜が定められている。
7:4 私は 横になるときに言う。「いつ起き上がれるだろうか」と。夜は長く 、私は夜明けまで寝返りを打ち続ける。
7:5 私の肉は、うじ虫と土くれをまとい、皮膚は固まっては、また崩れる。
7:6 私の日々は機の杼よりも速く、望みのないままに終わる。
7:7 心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。
7:8 私を見る人の目は、もう私を認めることはありません。あなたが私に目を留められても、私はもういません。
7:9 雲は消え去ります。そのように、よみに下る者は上っては来ません。
7:10 その人はもう自分の家には帰れず、彼の家も、もう彼のことが分かりません。

ヨブ記は、誠実で謙遜な人だったヨブが、ある日祝福の人生から一気にどん底に落とされてしまうという不条理を体験することになった物語です。
彼は一夜にして、全財産を失い、子どもたちを失い、全身は腫物で覆われ、妻からは「神を呪って死んでしまえ」と言われ、最後には友人たちから責め立てられるという大変な経験をします。
前回は、エリファズに「人には偉そうにアドバイスするくせに、自分に問題が起こったら対処することもできないのか。自分の中の何が問題だったか神に聞いてみるべきだ」と言われました。
それに対して「そんなひどいこと言わないでよ。勝手に私を罪に定めないでくれ」というのがヨブの答えでしたね。

① 人とは何ものなのでしょう?

今日の箇所7章1~6節でも、ヨブの嘆きは続いています。
私はこんなに苦しい状況にあるという、ヨブの訴えです。
「地上に生きる人々は苦役の中にある。私が今経験しているのも絶望だ。何の希望もない。」
しかし、7節から少し様子が変わってくるのにきづいたでしょうか?

7:7 心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。

日本語では、ここから敬語になっているのです。
これは、今までと話している相手が変わっていることを示しています。
ヨブは誰に向かって話しているのでしょう?
それは、神さまです。
エリファズへの言葉が、いつの間にか神さまへの訴えに変わっているのです。
そして、このように続いていきます。

ヨブ 7:16 もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。
7:17 人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。

「人とは何ものなのでしょう」という17節の言葉、これだけ読むと神さまに愛されているという感じがしますが、この文脈ではそうではありませんでした。
「塵のような私などに神さまご自身がわざわざこのような経験をさせるのですか。放っておいてください。いや、むしろ死なせてください」と言っているのです。
痛々しいですね。

② 神は誠実な人を退けない?

次に口を開いたのは、シュアハ人ビルダデです。
8章全体を通して語られるビルダデの言葉を要約するとこうなります。

「神さまに訴えて何になるのか。そんな言葉で神さまがその裁きを変えるわけがないじゃないか。神を知らず、敬わない人々の人生はそうなのだ。そうやって滅びていくのが、神に背く人々の定めだ。あなたが悔い改めて神を知れば、あなたの人生は変わる。」
そして、このように言うのです。

ヨブ 8:20 見よ。神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない。
8:21 神は、ついには笑いをあなたの口に、喜びの叫びをあなたの唇に満たされる。

つまり、ヨブは神に背いているのだと決めつけているんですね。
そして、「神に立ち返ればあなたの人生は好転するのだ。神は祝福を与える方だから」と言うのです。

どこかの宗教の勧誘の言葉のようです。
でも、場合によっては、私たちも同じようなことを言ってしまっています。
でも、その根底にあるのは、「この信仰に属せば良いことがある」という繁栄の神学的なご利益信仰です。

神さまは祝福を与えてくださる方であり、私たちの幸せを望んでいる。
それは全くその通りです。
その意味で、ビルダデの言葉に間違いはありません。
しかし、それが原則となり、幸せでないなら神から離れているに違いないと考えるのはあまりに短絡的です。
神さまを人格として見るのではなく、法則として見ています。
そして、その法則にしたがいさえすれば私たちは幸せになる。
その信仰の中心にあるのは自分の幸せであり、神さまではないのです。

③ 神との間に仲裁者がいれば

しかし、ビルダデのこの論法は説得力があって、ヨブもそれに引きずられます。
9章のヨブの返事は、ビルダデの論調に引っ張られながら、それでも自分の正しさを主張しようとする言葉になっています。

「それはどの通りだけど、そんなことを言ったら私に何ができるだろう? 神と言い争ってもムダなことではないか。私がどれだけ正しい生き方をしていたとしても、神が不合格だと言えば、それに反論することはできない。事実、私は正しくて誠実だったのに、神によって不合格とされこのような目にあっている。」

そして、ヨブの言葉は再び神さまへの訴えへと変わります。
内容的にはビルダデに言っていることとあまり変わりません。
「どうせ私がどれだけきよい生き方をしても、あなたには不十分なんでしょう?」という不平不満の言葉です。
そのつぶやきの中で、ヨブはこのように言っています。

ヨブ 9:32 神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。
9:33 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。

神が私たちと対等な人だったらよかったのに。
あるいは、私たちの間に仲裁者となる方がいればよかったのに。
そうすれば、私は神と語り合うことだってできるのに…。

このつぶやきの言葉は不思議だなぁと思います。
なぜなら、今を生きる私たちは、神が人となり、私たちと父なる神との間の仲裁者となってくださったことを知っているからです。

まるで神さまがヨブのつぶやきを聞いて、それを叶えたかのようです。
いやむしろ、ヨブの言葉は、はからずも預言となっていたのです。
ヨブはこの時点ですでに神さまの真理を知ることができる惜しい所にいました。
それはなぜだったのでしょうか?
それを知るためにはもう少し続きを見ていく必要があると思います。
出し惜しみするようですが、自分なりの仮説を立ててみたりしながら、引き続きヨブ記をお楽しみください。