ヨブ記 10~14章(10:1-7)ヨブ記4 『神さまが求める正しさとは?』2024/07/21 けんたろ

ヨブ記 10~14章(10:1-7)
10:1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。
10:2 私は神にこう言おう。「私を不義に定めないでください。何のために私と争われるのかを教えてください。
10:3 あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとに光を添えることは、あなたにとって良いことでしょうか。
10:4 あなたには肉の目があるのですか。あなたは人間が見るように見られるのですか。
10:5 あなたの日々は人間の日々のようなのですか。あなたの年は人の年のようなのですか。
10:6 それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。
10:7 私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。

ヨブ記からのシリーズですが、42章もあるけど創世記に戻りたいので、そろそろペースを上げていこうと思います。

ヨブ記は、誠実で謙遜な人だったヨブが、ある日祝福の人生から一気にどん底に落とされてしまうという不条理を体験することになった物語です。
彼は一夜にして、全財産を失い、子どもたちを失い、全身は腫物で覆われ、妻からは「神を呪って死んでしまえ」と言われ、最後には友人たちから責め立てられるという大変な経験をします。
エリファズに続き、前回はビルダデからも責められたところですね。
今日は、ビルダデの言葉に対するヨブの返事の続きからです。
悔い改めを迫るビルダデに対して、ヨブは「私たちがどれだけ正しく生きようとしても、神さまから「失格」と言われてしまったらそれまでだ。神が人間だったらもっと対等に話せただろうに」と愚痴をこぼしていました。
10章では、その言葉がますます絶望の言葉へと変わっていきます。
「生きていても仕方がない。いっそ生まれてこなければよかったのに」と、これまた聞いていてツラい言葉を並べ立てています。

① ツォファルのことば

それを聞いて怒り出したのが、3番目の友人ナアマ人ツォファルです。
あまりにも赤裸々に愚痴を言うヨブの言葉を聞いて、ツォファルは神さまを侮辱していると感じたのかもしれません。

ヨブ11:2 ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。
11:3 あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたが嘲るとき、あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。

「言葉数が多ければ、相手を言い負かして自分が正しいということになるとでも思っているのか。口先ばかりの言葉を並べやがって」というわけです。
しかし、ツォファルの全体的な主張はこれまでとあまり変わりません。
「神さまの声をちゃんと聞いているなら、神さまはお前のその罪も赦してくださるだろう。神さまは優しい方なのだから。でもそのことを知らないおまえは神を知らないに違いない」というのです。

これもまた、私たちクリスチャンが言ってもおかしくない一言です。
しかし、心なしか他の2人よりも短く、勢いが足りないようにも感じます。

② 正論を超えた経験

それに対してヨブが答えます。

ヨブ 12:3 私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。

「あなたが言うことなんて私だって知っていますよ。そんなこととっくに知っていても、私はこんな目に合っているんだ」というのです。
友人たちの言葉に関して、ヨブの言葉は実に的を射ています。
ヨブの友人たちの言葉は、確かに正しい、間違いはない言葉のように見える正論です。
でもそれは、全て知識でしかないのです。

ヨブ 13:1 見よ。私の目はこれらすべてのことを見た。私の耳も聞いて、それを理解している。
13:2 あなたがたが知っていることは私もよく知っている。私はあなたがたより劣ってはいない。

知識としては正しくても、ヨブはその正しい知識を超えた経験をしています。
「だから私は、こんなに苦しいし、神さまに訴えているのだ」というのが、ヨブの主張なのです。

そして、ヨブの言葉は再び神さまへの訴えへと変わっていきます。

ヨブ 14:15 あなたがお呼びになれば、お答えします。あなたは御手のわざを慕っておられるでしょう。
14:16 今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。
14:17 私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。

前回に引き続き、この言葉も神さまの計画を知っているのかと思うような言葉です。
神さまの赦しは、もう二度とその罪に目を留めない赦しです。
そこにあった背きの罪を封じ込め、御翼で私たちの咎を覆ってくださるのです。

③ 神さまが求める正しさとは

ヨブの友人たちが出そろったところで、ヨブの友人たちとヨブとの決定的な違いについて考えてみましょう。
ヨブの友人たちに関しては、先ほど少しお話しました。
彼らの言葉は正論であり、知識から来るものでした。
その知識も、正しいと言えるものだったと思います。
しかし、ヨブはその正しい知識を超えた、「1+1は2ですよね」と単純に言えないような経験をしていました。
その中で、ヨブがどうしてそれほど神さまに愛されていたのかということが明らかにされているように思います。

それは、ヨブが常に神さまに対して訴えているということです。
友人たちの言葉は、ヨブに対する言葉だけです。
でもヨブは、友人たちに答えつつも、それが神さまへの言葉へと変わっていくのです。

ヨブ記のシリーズの最初の時に、「正しさとは何か考えながら読んでみてください」と言っていたのを覚えているでしょうか?
ここに一つの答えがあります。
知識的な正しさを超えるヨブの正しさは、神さまとの対話なのです。

確かに、その言葉は愚痴ばかりであり、神さまに対して「こんなの不公平だ」というような訴えの言葉ばかりでした。
でも、それを素直に神さまに伝えることができる関係性の中にこそ、神さまが喜ばれるものなのです。

「神さまについて」知っていることが悪いことではありません。
でも、それより大切なのは、「神さまを」知ることなのです。
ヨブが言うように、人の正しい知識、正しい行いなんていうものは、神さまの前にそれほど重要なものではありません。
なぜなら、罪人である私たちの正しさなんて大したことではないからです。
そうではなく、私たちが本当に正しい方である神さまに立ち返ること、それ以上に重要なことはないことを、聖書は教えています。
どうか皆さんが、神さまについて知るだけではなく、神さまご自身を知っていると実感を持って言うことができますように。
まずは、神さまに語り掛けるところから始めてみましょう。