ヨブ記 15~31章(15:1-6)ヨブ記5『議論は何を生み出すのか?』2024/07/28 けんたろ

ヨブ記 15~31章(15:1-6)
15:1 テマン人エリファズが答えた。
15:2 知恵のある者は、むなしい知識によって答えるだろうか。東風で腹を満たすだろうか。
15:3 益にならないことばで、役に立たない論法で論じるだろうか。
15:4 あなたは敬虔を不要と見なし、神の御前で祈るのをおろそかにしている。
15:5 それは、あなたの咎があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選んでいるからだ。
15:6 あなたの口があなたを不義に定める。私ではない。あなたの唇が、あなたに不利な証言をする。

ヨブ記のシリーズ、前回からペースを上げますと言いましたが、今回はなんと15章から一気に31章までを取り上げていきます。
それは、基本的には話が繰り返しになっているからです。
エリファズが話してヨブが弁明し、ビルダデが話してヨブが弁明し、ツォファルが話してヨブが弁明するということの繰り返しです。
これが3回繰り返されることになるわけです。
それぞれに少しずつ違いますが、全体の流れとしてはパターンがあります。
友人たちが、ヨブに対して罪を思い出させ、それを悔い改めろと迫る。
ヨブは、「私を責めないでくれ」と訴え、それが神さまへの言葉へと変わっていく。
繰り返される中にも、預言的だったり特別な気づきがあったりもするので、興味のある方はぜひご自身で読んでみてください。
しかし、細かい所よりも全体像を把握することの方が大切だと思いますので、今回は一気に進みますね。

① 議論が大好きなユダヤ人

彼らは、このような状況にあってなぜこんなにも議論するのでしょうか?
それは、読者がユダヤ人だからということがあるかもしれません。

ユダヤ人たちが元々理屈っぽくて議論好きな人たちなのです。
「あ~でもない、こ~でもない」と議論を重ねることによって物事を進めます。
ヨブ記はユダヤ人が生まれてくるよりもずっと前の話しだと考えられていますが、内容はユダヤ人向けに描かれている部分があるように思います。
ユダヤ人の文化では、ヨブの友人たちが次から次へとヨブに意見を言い、最後にエリフという赤の他人までその議論に飛び込んでくることも日常の光景だったのです。

シナゴーグというユダヤ人の集会所はまさにそのような議論のための場所で、律法学者たちとユダヤ人市民たちの議論が常に繰り広げられていました。
新約の時代も、パリサイ人やサドカイ人、律法学者たちがイエスさまに議論を吹っ掛けてきましたし、イエスさまや弟子たちから議論が始まることもありました。
そのような議論よって、聖書の理解が深められていった部分は大いにあったのです。

しかし、ヨブの物語は、そのような議論がいつも有益とは限らないという内容になっているように思います。
ヨブは「私の気持ちを分かって欲しい」「あなたたちの言葉は何の慰めにもならない」という言葉を何度も繰り返しているからです。

ヨブが必要としていたのは、話を聞いてくれる人であり、分かってくれる人であり、慰めてくれる人だったのです。

② ヨブの神さまへの訴え

さて、これは前回触れた部分でもありますが、ヨブの言葉には、友人たちの言葉にはない特徴がありました。
それは、弁明の言葉がいつの間にか神さまへの問いかけや訴えへと変わっていくということです。
これはヨブがどれほど良い関係を神さまと持っていたかということの現れでした。
多くの場合、それは愚痴に近いものでもありましたが、そこにはヨブの真っすぐな気持ちがあり、時として神さまの計画に繋がるような預言的な言葉も含まれていました。

ところが、友人たちとの議論を重ねている内にここに変化が生じてきます。
それは、神さまへの言葉がどんどん少なくなっていくのです。
友人たちとの対話は3回繰り返されますが、2周目からはすでに神さまへの言葉が少なくなっています。
そして3周目には、神さまに対する訴えはその姿を消してしまったようです。

議論の弊害は、こういう所にあるようにも思えます。
責められれば責められるほど自分を護るために心は頑なになっていき、議論を重ねるうちに、議論することに心が向き過ぎて、神さまからは離れてしまうのです。
ヨブの主張はどんどん自分の無実を訴え、神さまの聖にするような言葉が増えていきました。

③ ヨブの最後の主張

ヨブ記の26章から31章までは、ヨブの最後の主張です。
その言葉を少し紹介していきましょう。

ヨブ 26:1 ヨブは答えた。
26:2 あなたは無力な者をどのように助けたのか。力のない腕をどのように救ったのか。
26:3 知恵のない者にどのように助言し、知性を豊かに示したのか。
26:4 だれに対してことばを告げたのか。だれの息があなたから出たのか。
26:5 死者の霊たち、水に住む者たちはその底で、もだえ苦しむ。

あなたたちの言葉は誰も救わない。
ただ苦しめるだけだというわけです。

ヨブ 27:1 ヨブはさらに言い分を続けた。
27:2 私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。私のたましいを苦しめた全能者にかけて。
27:3 私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、
27:4 私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない。

苦々しい言葉ですね、そして「私は絶対に正しい」と言い切ってしまっています。
むしろ、悪いのは不公平な神さまだとでも言わんばかりの言葉です。

この後もヨブは、自分がいかに正しいことをしていたか、いかに間違っていなかったかを述べ続けていきます。
そうとでも言わなければ友人たちを黙らせることができなかったのかもしれません。
10ページ近くに及ぶこの独白は、友人たちの口を完全に閉ざしてしまいました。
議論としては、相手を黙らせるほどの勝利と言ってよかったかもしれません。
でも、それは建設的なことを何も生み出しませんでした。
そして、エリフと言う新たな論客が登場し、また議論が始まる。
それだけのことだったのです。

そして、自らを義人とするその姿勢は、自己義認に他なりませんでした。
それがヨブの根底にあった罪だということもできるでしょう。
それと同時に、友人たちの言葉が、それほどヨブを追い詰めたとも言えるかもしれません。
どうすることが正解だったのだろうと思わないではいられないですね。

皆さんならどうするでしょう?
そして神さまは、何を思われるのでしょう?
ぜひご自身でも考えてみてください。