ヨブ記 32~37章(32:1-5)ヨブ記6 『私たちがよく使う言葉』 2024/08/03 けんたろ

ヨブ記 32~37章(32:1-5)
32:1 この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。
32:2 すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので、ヨブに向かって怒りを燃やしたのである。
32:3 彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを不義に定めながら、言い返せなかったからである。
32:4 エリフは、彼らが自分よりも年長だったので、ヨブに語りかける時を待っていた。
32:5 エリフは三人の者の口に答えがないのを見て、怒りを燃やした。

ヨブ記のシリーズも大詰めとなってきました。
ヨブ記は、信仰を持ち正しく生きていたヨブが、ある時理不尽な不幸に見舞われてしまうという話でした。
その大半がヨブと三人の友人たちとの対話というか議論によって成り立っています。
これまで、ヨブ、エリファズ、ビルダデ、ツォファルのそれぞれの主張を聞いてきました。
友人たちの言葉は基本的にはあまり変りばえせず、「何かおまえに問題があるはずだ。その罪を認めて悔い改めろ」という語調で、それに対してヨブは「俺は悪くない」と頑なに否定するという構図でした。
前回のところでは、ヨブが10ページ近くもの量を自分の正しさを主張し、不公平な神を糾弾するような言葉を重ね、ついに友人たちを黙らせました。
今日の箇所の冒頭にはこのように書かれています。

32:1 この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。

友人たちは、ヨブの主張の正しさを認めて黙ったのではありませんでした。
ヨブ自身が、自分を正しいと思っていたから黙ったのです。
つまり、話してもムダだと思ったわけです。
議論は何も生み出さなかったというのが前回の結論でしたね。

さて、今回のところではエリフと言う新しい人物がいきなり登場します。

① エリフとはだれか

さて、エリフとはいったい何者なのでしょうか?
「ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフ」と紹介されています。
これもイスラエルとはあまり関係のない人物ですね。
ブズ人とは何だろうと思って聖書内を検索してみたところ、おもしろい箇所を発見しました。

創 22:21 長男ウツ、その弟ブズ、アラムの父ケムエル、

これは、アブラハムの兄弟ナホルの子どもたちについての記述です。
ブズだけなら偶然かもと思いましたが、ここにはヨブの出身地であるウツの名まえもあります。
そうすると、ヨブ記の物語はナホルの子孫たちの話しであり、ヤコブやヨセフの時代、あるいはヨセフたちがエジプトに移り住んだ後の時代である可能性が高いように思いました。
これまでは、アブラハム以前の話しかもと思っていましたが、少し修正が必要だと思いました。
聖書を調べていると分かってくることがあるものですね。

② 私たちがよく使う言葉

さて、この若者エリフがそもそもヨブの友人だったのかどうかはなぞですが、突然この議論に飛び込んできました。
この辺りも、イスラエルの人たちの議論好きが反映されているように思いますね。
では、彼の主張はどのようなものだったでしょう?
他の人たちと同じように、エリフの言葉には特徴があり、同じ言葉が繰り返し出てきます。

32:10 だから私は言う。「私の言うことを聞いてくれ。私も自分の意見を述べよう。」

32:17 私は私で自分の言い分を返し、私も自分の意見を述べよう。

33:1 そこでヨブよ、どうか私の言い分を聞いてほしい。私のすべてのことばに耳を傾けてほしい。

こうして見ると、自己主張が必要以上に激しい人ですよね。
彼は年若く、年長者に教えられる身だと思っていたのでこれまでは黙って聞いていたからこそ、もうこれ以上ガマンはできないという思いが爆発しているノンです。
では、何を黙っていられなかったのでしょう?
それは、「ヨブが神さまを罵り、友人たちはそれを黙って聞いているだけの状況」をです。
とは言え、その主張自体は、他の人たちとあまり変りがないように見えます。

ところが、エリフの言葉は徐々にその内容が変わっていくのです。
もう一度、ヨブと友人たちの言葉を思い出してみましょう。
友人たちの言葉は、ヨブに対して「お前は罪人だ」というヨブに対する言葉が大半で、神さまに関しては表面的な知識でしかありませんでした。

一方ヨブの言葉には、神さまに対する訴えが入っていました。
そこには、神さまとの関係を読み取ることができたのです。
そこがヨブの素晴らしさでしたが、その内容は自分の正しさの主張と、神さまへの不満に満ちており、やがて不公平な神さまへの糾弾と自己義認に変わってしまいました。

最初は自己主張の塊だったエリフの言葉がどのように変わっていったか、少しだけ紹介しましょう。

ヨブ 34:21 神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。
34:22 不法を行う者どもが身を隠せる闇はなく、暗黒もない。
34:23 神は人について、それ以上調べる必要はない。さばきのときに、神の前に出させてまでして。
34:24 神は力ある者を、取り調べなしに打ち滅ぼし、彼らに代えてほかの者たちを立てられる。
34:25 神は彼らのしわざを知っており、夜に彼らを打ち倒される。彼らは砕かれる。
34:26 神は、人々の見ているところで、彼らをその邪悪さのゆえに打ちたたかれる。

違いがお分かりになるでしょうか?
エリフの言葉の中心は、神さまへと変わっていくのです。

③ 中心が変わる

そして、エリフの言葉は38節からは神さまご自身の言葉へと変わります。
その内容については次回取り上げますが、今回はそれが何を意味しているのかという所に注目したいと思います。

この出来事は、私たちの思い、主張、議論の中心は「神さま」に向いているべきであることを意味しているように思います。
先ほども話したように、友人たちの思いの中心は「あなた」であり、ヨブの思いの中心は「私」でした。
ヨブは神さまのことにも触れましたが、神さまへの言葉にもなりましたが、その主張の中心にあったのは常に「私」だったのです。
エリフの言葉は、最初こそヨブと同じように「私」が中心となっていましたが、その思いの中心にあったのは「神さま」だったのです。
すると、エリフの言葉はやがて神さまの思いと一致していき、神さまの言葉そのものに変わっていったということなのです。

私たちが何かを考え、思い、議論をするとき、その中心にあるのは何か、ぜひ考えてみてください。
友人たちのように他の誰かになっていないでしょうか?
ヨブのように自分自身になっていないでしょうか?
私たちは、エリフのように「神さまはどのような方であり、何を考えているか」に思いを向けるべきです。
やがて私たちの心は、エリフのように神さまの心と一致するようになるのです。