ヨブ記 38~42章(38:1-7)ヨブ記7『知識もなしに摂理を暗くする者はだれか』2024/08/11 けんたろ

ヨブ記 38~42章(38:1-7)
38:1 【主】は嵐の中からヨブに答えられた。
38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
38:7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。

ヨブ記のラストです。
今日の箇所からついに神さまが登場し、ヨブと友人たちが語っていた議論に関して神さまが何を思われていたのかを表わされます。
神さまはヨブたちに何を伝えるのでしょうか?

① 知識もなしに摂理を暗くする者はだれか

神さまが伝えたいことは、この一言に込められていると思います。

38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

これはつまり、「何も知らないくせに何かが判っているかのように述べて、むしろ真理を覆い隠してしまっているのは誰だ」という神さまの怒りの言葉です。
そしてこの後、神さまはヨブたちに「これを知っているのか?」「分かっているのか?」と60にもおよぶ質問を投げかけています。
この質問の内容に関しては、それほど重要ではありません。
それはどれも、私たちには答えることのできないような質問です。

この箇所から「いや、昔は分からなかったけれど、現代は答えられる」とか、「これは科学的に正しくない」みたいなことを言う方たちがいますが、それこそ「知識もなしに言い分を述べて摂理を暗くする者」たちに他なりません。
このたくさんの質問のポイントは、「結局私たちは何も分かっていない」ということを明確にすることなのです。

この世界には、神さまにしか分からないことがあります。
「自分がどう思うか」とか、「どう感じるか」とか、「現代の科学ではこう考えられている」とか、「聖書にはこう書かれている」という話はできても、私たちがこうだと断言できることなど一つもありません。
そんな私たちが勝手に何かを判断たりし、誰かを裁いたり、ましてや自分こそが正しいと考えたり、神さまに文句を言ったりするなんて「百億年早いわ」ということです。

② ヨブの悔い改め

ぐうの音も出ない神さまの言葉に、ヨブは何とかこのように答えています。

ヨブ 42:2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
42:3 あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。

「神さまが人だったらいいのに」「話し合えたら文句の一つでもいってやるのに」と言っていたヨブの願いが叶ったのです。
神さまがまさにヨブに直接語り掛けてくださった。
しかし、ヨブは思っていたように文句の一つも言えるような状態ではありませんでした。
自分にはそんな資格は少しもないことを思い知らされたのです。

ヨブ 42:5 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。

これまでは、ヨブ自身も神さまをただ知識で知っていただけでしかなかったことに気づきました。
神さまに語り掛け、祈ってはいたけれど、それはただ一方的に言い放つ言葉でしかなかった。
しかし今、ヨブは神さまを目の前にし、神さまの声を聞いたのです。
そのときヨブにできるのは、ただただ自分の不遜さ、傲慢さを反省し、悔い改めることだけでした。

③ 公同が問われている

次はヨブの友人たちへの言葉です。

ヨブ 42:8 今、あなたがたは雄牛七頭と雄羊七匹を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、自分たちのために全焼のささげ物を献げよ。わたしのしもべヨブがあなたがたのために祈る。わたしは彼の願いを受け入れるので、あなたがたの愚行に報いるようなことはしない。あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったが。」

私たちには正論のように聞こえた友人たちの言葉でしたが、神さまは正しい理解ではなかったと伝えています。
傷つき、苦しむヨブを追い詰めることは神さまの御心でなかったのです。
しかし、ヨブがあなたたちのために祈るなら、それに対して報いを与えるようなことはしないと神さまは約束しました。
彼らの赦しは、ヨブの手にかかっていたのです。

友人たちはヨブのところに行き、礼拝のために全勝の生贄を捧げました。
この辺りの記述は興味深いです。

ヨブ 42:9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルは行って、【主】が彼らに命じられたようにした。すると【主】はヨブの願いを受け入れられた。

彼らが神さまに従って行動すると、神さまはヨブの願いを受け入れられました。
そして、神さまに受け入れられたヨブが彼らのために祈ったのです。
友人たちの行動によって祈りが受け入れられるかどうかが決まり、その後にヨブが祈っているのがおもしろいですよね。

ヨブ 42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、【主】はヨブを元どおりにされた。さらに【主】はヨブの財産をすべて、二倍にされた。

そして、ヨブが友人たちのために祈ったとき、今度はヨブが癒されました。
友人たちとヨブが神さまに従うのでなければ、これらのことは起こらなかったでしょう。
しかし、彼らが神さまに従ったことによって、計画されていたことが実現したのです。

④ 不条理と祝福

最後にもう一つ。
ヨブは財産を2倍にされ、新たに子どもたちが与えられましたが、失った子どもたちが戻って来たわけではありません。
この話は、「祝福」という言葉で単純に締めくくることができるような物語ではないと思います。
生きる中には不条理なことや、突然の苦しみ、悲しい出来事が訪れることがあります。
その一つ一つは、それ自体を喜ぶことなんてできません。

全てを与え、全てを奪うことができる神さまを、私たちは恐れるべきです。
でもそんな神さまが、私たちを赦し、愛してくださるということが、何よりも恵みです。
ヨブ記は本当にいろいろなことを考えさせられます。
そして、私たちの人生や生き方、価値観や考え方が問われているように思います。
皆さんはヨブ記を通してどんなことを思われたでしょうか?
ヨブや友人たちのように、必要な時には悔い改め、神さまに立ち返り、主とともに歩んでいくことができますように。