エレミヤ18-19章 「怒りの器から憐みの器へ」-土の器として用いられる- 2024/08/18 小西孝蔵
・今週は、猛暑の中、庭仕事で熱中症になり、今日のメッセージができるかどうか心もとなかったので、今日ここに立てることは感謝。-聖書朗読、祈りー
・先週木曜日は、終戦記念日。当時、戦争に反対して、職を追われ、孤立していたあるクリスチャンの大学教授と、人間魚雷で死にかけた親戚のクリスチャンの先人とが、いずれも、エレミヤ記を読んで大きな慰めと励ましを受けたことを最近知って、困難に直面する現代に生きる私たちも、エレミヤから学ぶことが多いように思う。
1. 前回までのあらすじ(15章)
青年時代の預言者としての召命を受けたエレミヤ(第1回)は、神に忠実だったヨシヤ王の宗教改革への参画した(第2回)あと、彼の死後、真逆の息子、悪玉エホヤキム王の下、約10年間で迫害を受け続ける。迫害下に在って孤立無援に晒されたエレミヤは、自分が生まれてきたことを呪った(第3回)。〇エレミヤ15章「15:10ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。 」(エレミヤ15章10節)
・エレミヤ15章から26章あたりまでは、おおむね、40歳代の壮年時代のエレミヤの様子を描いている。エレミヤは、孤独な「悲哀の預言者」として悩みつつ、主の言葉に従う。主の言葉に従いつつも、自らの限界や弱さを何度も告白し、神様に訴えかける。主の言葉とエレミヤの告白の交錯は、エレミヤ記20章まで続く。
・こうしたエレミヤの孤独は、サラリーマン(ウーマン)の管理職として孤独な立場に置かれた時に共感を覚えることがある。また、闘病生活を強いられている時にも通じるものがあるような気がする。私自身、エレミヤは、最初はとっつきにくい預言者ではあったが、次第に親近感を感じさせてくれる人物でもあった。
・エレミヤの神様に対する告白は全部で7回に及ぶが、丁度家族や財産をすべて失ったヨブ(3章)を思い出させる。ヨブ記とエレミヤ記とは、神様に忠実であろうとして、苦難と孤独に晒されるという意味で共通する部分が多い。最終的に、神への告白、訴えに対して、創造主なる神様の意思と愛の深さを知り、慰めと励ましが与えられる。なお、年代的にいえば、ヨブの人物は、時代が相当に遡るものの、ヨブ記が編集されたのは、バビロン捕囚頃という見方が有力とされている。
2. 流れのほとりに植えた木(17章)
・本題(18・19章)に入る前の導入になるのが17章。「神から離れ、己に頼るものは、荒れ地の灌木のようにしおれる、しかし、主に立ち帰って主と共に生きるもの位は、流れのほとりに植えられた木のように茂る。」と。
〇エレミヤ17章「17:5主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。17:6彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。・・・17:7おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。17:8彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」
・詩編第1編にも引用されているこの言葉は、旧約聖書、そしてエレミヤ記の全体を流れる真理。神様の下に立ち帰りなさい。自分を頼みにし、主から離れるものはと滅ぼされるが、常に主に信頼し、主と共に歩むことが命の道であるという単純明快なメッセージ。
3. 陶器師と創造主なる神(18章)
〇エレミヤ書18章「18:1主からエレミヤに臨んだ言葉。 18:2「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。 18:3わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 18:4粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。・・・ 18:6「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」
・本日のテーマである陶器師の創る土の器のたとえは、エレミヤに対する神様の実物教育である。エレミヤが日常目にする陶器師の作品作りに現場にエレミヤを導いて教えられる。陶器師は、創造主である神様を意味する、創世記2章で土からアダムを作られた神様は、全知全能の創造主。人間は、神様に文句を言う立場にない。神から離れて偶像を拝み、自己中心に生きる民こそ裁かれることを陶器師と陶器のたとえで示される。
〇エレミヤ18章(19,20節)「主よ、私に心を向け、私と争うものの声を聞いてください。悪をもって善に報いていいでしょうか。しかし、かれらは、私の命を狙って穴を掘りました」
・主の言葉に対するエレミヤの告白(嘆きと神様への訴え)は、交互に出てくるのが特徴的。エレミヤの受けた迫害は、20章以下に具体的に記述されるが、そうしたユダヤ人からの迫害を受けたエレミヤは、ここで、6回目の告白を主にぶつけた。
4. 陶器が砕かれるように民が滅ぼされるという預言(19章)
・陶器師の作業所に行くようにという言葉に続いて、主は、エレミヤに陶器の壷(徳利)をもって、ベンヒンノムの谷に行くように命じられる。
〇エレミヤ19章「19:1主はこう言われる、「行って、陶器師のびんを買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人を伴って、 19:2陶片の門の入口にあるベンヒンノムの谷へ行き、その所で、わたしがあなたに語る言葉をのべて、 19:3言いなさい、・・19:4彼らがわたしを捨て、この所を汚し、この所で、自分も先祖たちもユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、・・・ 19:5また彼らはバアルのために高き所を築き、火をもって自分の子どもたちを焼き、燔祭としてバアルにささげた。・・ 19:6主は言われる、それゆえ、見よ、この所をトペテまたはベンヒンノムの谷と呼ばないで、虐殺の谷と呼ぶ日がくる。」
・ベンヒンノムは、エルサレムの城壁の西から南に折れ曲がって広がる谷で、バールの神に子供を焼いてささげる、忌まわしい場所であった。神様は、そこで陶器を打ち砕くように、神に逆らうユダヤの民も敵に打ち砕かれると預言せよエレミヤに命じられた。ちなみに、黄泉の国を表すゲヘナは、ゲ・ヒンノムに由来している。
〇エレミヤ19章「19:10そこで、あなたは、一緒に行く人々の目の前で、そのびんを砕き、 19:11そして彼らに言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる、陶器師の器をひとたび砕くならば、もはやもとのようにすることはできない。このようにわたしはこの民とこの町とを砕く。』
・余談だが、ユダヤの結婚式ではグラスを割る習慣があるそうだが、これは、結婚の仕合せには苦難も伴うことを意味しているそうだ。日本でも、娘の結婚の時、二度と帰ってこないよう、送り出すときに茶碗を玄関で叩き割る習慣がある。娘が古い自分に戻ることが無いようにとの親の願いを込めているものかもしれない。エレミヤを通じてユダヤの民に示された神様の意図とは、少し似ているようで違うかも。
〇エレミヤ19章「 19:14エレミヤは主が彼をつかわして預言させられたトペテから帰ってきて、主の家の庭に立ち、すべての民に言った、 19:15「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、見よ、わたしは、この町とすべての村々に、・・もろもろの災を下す。彼らが強情で、わたしの言葉に聞き従おうとしないからである」。」
・エレミヤは、神様の仰せの通り、神殿に戻り、ベンヒンノムの谷にあるトペテという異教の祭儀の場所で陶器を砕いて捨てられるように、エルサレムの町も人も滅ぼされることを預言した。その反応は、20章に出てくるが、次回に回したい。
5. 怒りの器から憐みの器へ(ローマ書9章)-土の器の働き(2コリント4章)
・このように、で、神に逆らう民が陶器のように砕かれる光景を見ると怖くなる、神様から離れることの裁きの厳しさに震えあがりそう。また、そのことを民に語って命を狙われるエレミヤの苦しみも同情に値する。しかし、有難いことに、新約時代に生きる私たちには、キリストの十字架の贖いによる赦しがある、そこには、神様の愛によって、滅ぶべき器、怒りの器が、憐みの器に変えていただける恵みがある。
〇ローマ人への手紙9章「 9:21陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 9:22もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 9:23かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 9:24神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。
・パウロは、神に反抗し続けたため、「怒りの器」として滅ぼされるべきイスラエルの民が「憐みの器」として、異邦人と共に救われることに神の深い愛を感じている。エレミヤとパウロは、試練を通じて信仰を鍛えられた点で似ている。
〇第2コリント4章「4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 4:8わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 4:9迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 4:10いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
・パウロは、土の器の中に宝を持っているとしている。宝物とは、使徒の働き、福音伝道(ミニストリ-)を意味する。その力は、苦難を通して神様から与えられる。十字架による贖いを経て、キリストの復活のいのちが現れる。そして、土の器を通じて神の栄光が現わされる。
・日本語で、誰かに重要な仕事を頼まれる時、「私はその器ではない」と使うことが多い。力不足だという意味で使われる。私自身、エレミヤとは比べようがないが、現役時代から今日までの人生において、神様から到底できそうにない使命や責任を負わされることが何度かあった。その器ではない、力不足と言って断りかけたこともあった。その時に、欠けやすい弱い土の器であるけれども、キリストに委ねきるとき力を得ることができ、憐みによって、職責を全うすることができる。そこに神様の深い愛と憐みを感じさせられる。
・本日のまとめは、別添資料の通り。
・パウロと同じように私たちもキリストに出会い、キリストを通じて与えられる神様の深い愛に感謝しつつ、土の器の賛美を一緒に歌いたい。「欠けだらけの私ですが、主の愛に応えたい。私のすべてで用いてください、私にしかできないことがあるから。」
以上