創世記 18:1-5 (18-19章)『創世記18 神が人を裁くとき』2024/09/13 けんたろ

創世記 18:1-5 (18-19章)
18:1 【主】は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。
18:3 彼は言った。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。
18:5 私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言うとおりにしてください。」

前回のメッセージでアブラムがアブラハムとなり、神に召されたものとしての歩みが始まりました。
それまでも、神さまの声を聞いた者として主に従いながら歩んでいましたが、アブラハムとなってからは、「神さまの計画の中にいる」という自覚を新たに下のではないかと思います。

さて、今回はセンシティブな話題なので、できれば話したくない(笑)、でも避けることはできないし、話しておくべき部分でもあると思います。
皆さん、ちょっと心の備えをして今日のメッセージは聞いていただきたいと思います。

① 神の予告

ある時、アブラハムの元に3人の人が現れます。
実はそれは、主ご自身とふたりの御使いでした。
つまりここに出てくるのは、ナザレのイエスとして生まれてくる前のイエスさまです。
三位一体の神であるイエスさまは、創造の前から父なる神さまとともにいますから、旧約聖書にも登場するのです。
ただ、この時はもちろん「イエス」という名まえの人間ではなく、御使い的な存在として現れていますね。

ここで主は、アブラハムにこれから起こる二つのことを示します。
一つは、来年の今頃、妻のサラは赤ちゃんを産むという予告です。
このことを聞くと、サラは心の中で笑いました。
サラはすでに閉経していて、アブラハムも100歳近いお爺さんだったからです。
「んなアホな」という思いからは、思わず笑ってしまったんですね。
そのことは主に咎められますが、この笑いは後に別の笑いへと変わります。

もう一つは、甥のロトがいるソドムとゴモラを滅ぼすという予告です。
ソドムと言えば、つい数年前、アブラハムがロトを救うために助けた国ですね。
自分が助けた国が、これから滅ぼされるという予告を聞いて、アブラハムは複雑な思いだったかもしれませんね。

② 裁きの理由

ソドムとゴモラはどうして滅ぼされることになったのでしょうか?
個人的にはあまりこの話題に触れたくはない(何を言っても怒る人がいるので)のですが、話す必要があると思います。世の中が混乱しているのからです。
一つ言っておくと、ソドムやゴモラは同性愛の罪のための滅ぼされたのではないと僕は思っています。
では、同性愛は罪ではないのか? そんなことはありません。同性愛は罪であることを聖書は明確に示しています。
でもそんなのは、数ある罪の中の一つでしかありません。
罪というのは、僕たちが神さまから離れ、神さまが創造してくださったように生きなくなってしまったことを言います。
多くの方たちが性のことに関心があるのはわかりますが、そこだけを見て「罪だ」「罪じゃない」というのはおかしな話です。
私たちは、みんなそれぞれに神さまが創造したように生きなくなった罪人なのです。

では、ソドムとゴモラの問題はなんだったのか?
聖書にはこのように書かれています。

創世記 18:20 【主】は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」

今回気づいたのは、主はソドムとゴモラの叫びを聞き、それによって彼らが保とぼし尽くされるべきかどうかを確かめに行ったということです。
ここから先は私の推測ですが、ソドムとゴモラは明確に神さまへの反逆を叫んでいたのではないかと思います。
明確な反逆は、知らずに罪を犯していたことよりも責任が大きいです。
そしてもう一つ思うのは、周りへの影響力が大きかったのではないかということです。

聖書では、偽預言者や教師たちの責任はより多く、神の裁きがより大きいことが記されています。(第二ペテロ2章など)
ソドムとゴモラが偽教師や預言者だったとは考えにくいですが、そのような大きな影響力をもっていたのではないかというのが私の(あくまでも)推測です。
だからソドムとゴモラを滅ぼすことは、アブラハムたちとその子孫を護るためでもあったのではないかと思うのです。

③ ソドムとゴモラの滅び

ロトを助けるためもありますが、「悪人たちを滅ぼすために良い人たちを犠牲にするのか」とアブラハムは主に食い下がります。
そしてソドムに50人の善人がいたら滅ぼさない、いや40人、30人と食い下がって最後には10人でも善人がいたらソドムを滅ぼさないという約束を結びました。
しかし、この後ソドムは結局滅ぼされることになりました。
正しい人は10人もいなかった、いやそれどころか正しいと言える人はせいぜいロト一人しかいなかったのです。
そのロトですら、主の忠告に耳を傾けることができず、アブラハムの信仰によって辛うじて助けてもらえただけでした。

私たちがこの話から学ぶことができることは何でしょう?
第一に、神さまが裁きを下される方だということです。
神さまは私たちを愛しておられ、私たちが自ら判断する自由意思を与えられています。
でもそれは、何をしても良いということではありません。
神さまは、私たちを愛しているからこそ、自らを傷つけ、堕落し、滅びの道へと向かっていくことを悲しみます。
そして、裁きを下さなければならないときには、そのことを心から嘆かれる方なのです。

第二に、神さまは私たちにその意思を伝えられるということです。
主は、この裁きが下される前にアブラハムにも、ロトにも語り掛け、ソドムが滅ぶことを伝えられました。

ヨハネ 15:15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

私たちにも、神さまが伝えていることがあると思います。
神さまがどうしてそのこと私たちに伝えたのでしょう?
その判断は、どうやら私たちに任せられているようです。
私たちは神さまの示しを受け取って、次には何をするのか、私たちももう一度考える必要があるのかもしれませんね。