創世記 21:1-6 (20-22章)創世記19 『神が人に試練を与えるとき』2024/09/22 けんたろ
創世記 21:1-6 (20-22章)
21:1主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。
21:2 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
21:6サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
カルデアのウルから出てきたアブラムは神様の約束を信じて導くままに旅をし、アブラハムとなりました。
彼が信じた約束とは、彼に子孫が与えられ、それはちりの数ほど、星の数ほどに増え、ひとつの国民になるという約束でした。
それは名誉なことであり、素晴らしい約束ではありましたが、見ることができない将来のことより。まずはいま一人の子どもが与えられることが喜びだったでしょう。
しかし、そこにはさまざまな試練がアブラハムを待ち構えていたのです。
① サラが再び召し上げられる
ひとつは、エジプトのときにした失敗と同じ状況に直面するという試練です。
前回のときサラはエジプトのファラオに召し抱えられそうになりましたが、今回はネゲブのアビメレクという人にサラが連れていかれてしまいました。
今回は、いよいよアブラハムとサラの間に子供が生まれようとしているその直前のできごとですから、問題はより深刻です。
場合によっては、アブラハムとハガルとの間にイシュマエルが生まれたように、サラとアビメレクの間に子供が生まれてします。
そうすると、主が伝えたように、来年にはアブラハムとサラの間に子供が生まれるという預言は成就しないことにもなってしまいます。
それなのに、アブラハムは懲りずに同じ失敗をし、サラを妹だと言ってしまいました。
アブラハムの失敗がひどいことは確かです。
2回も同じ失敗をし、今回は約束の子が生まれてこなくなる可能性すらあったのですから。
でも、この話のポイントはアブラハムの失敗よりも、神様の計画は必ずなるというところにあります。
アブラハムは命の危機に直面し、神様の計画が覆されるような事態が起こった。
そこでのアブラハムの選択は正しいものではなかったけれど、そこに神様が介入して、事態はすべて良い方向に進みました。
神様の計画は、必ず実現するのです。
② 約束の子イサク
そして、約束の子イサクはついに生まれてきました。
1年前、「来年の今頃、サラはアブラハムとの間の子を授かっている」と言った主の言葉を「ンなアホな」と鼻で笑ったサラは、このように言っています。
21:6サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
鼻で笑ったサラの笑いは、神様が与えられた喜びの笑いへと変えられたのです。
神様は、このようにして私たちに笑いをもたらしてくださる方なのです。
しかし、そこに第二の試練が訪れます。
先に生まれたイシュマエルが、イサクをいじめ始めたのです。
この試練は、イシュマエルとその母ハガルが追い出されることによって解決しました。
決して良い解決策とは言えませんが、それは仕方のないことでした。
二人が一緒にいれば、そこには必ず争いが起こってしまうからです。
それはサラの失敗、アブラハムの失敗、ハガルの失敗、イシュマエルの失敗、それぞれの問題が重なって起こった出来事です。
そのしわ寄せは、どうしても弱い立場となるハガルたちが負わなければなりませんでした。
しかし、神様はそこにも助けの手を伸ばし、ハガルとイシュマエルを救い出してくださったのです。
さて、ここでのポイントも、アブラハムが失敗したときに、それを補い、助けてくださる神さまの姿です。
失敗すれば、それなりの痛みが伴い、私たちは刈り取りをしなければならなくなりますが、不足分を神さまが補ってくださっていたりするのです。
③ 主の山に備えあり
アブラハムが経験した最大の試練は、イサクをいけにえとしてささげなさいと命じられたことでしょう。
創世記 22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
このように命じられたとき、アブラハムは驚いたことでしょう。
これまで神さまが約束していたことを覆すような命令だったからです。
しかし、アブラハムはそれに従って行動しました。
アブラハムがどうしてこんな信仰を持てたのか、長い間不思議でしたが、今回は何かわかったような気がしました。
ここまで、アブラハムがどんな大きな失敗をしても、神さまがそれを補い、助けてくださったことを何度も経験してきたからです。
へブル書の著者によれば、「アブラハムはイサクを殺しても、きっと神さまが蘇らせてくださると信じていた」と言います。
アブラハムはそのように信じられるほど、これまで何度も助けられてきたし、神さまの約束はどんなことがあっても必ず成就することを信じる根拠があったのです。
そして今度もまた、そのことを証明するように、神さまはアブラハムがイサクを殺す直前に止め、イサクの代わりにいけにえとして捧げるための羊を用意していました。
それは、私たちの代わりに罪を負ってくださる救い主を象徴したひとつの伏線です。
この出来事を通して、アブラハムとその子孫は、神さまが私たちの罪や欠けを身代わりとなって背負ってくださることを知ったのです。
現代を生きる私たちは、これとは逆の道をたどっています。
まず、イエスさまが私たちの身代わりとなってくださったことを体験し、だから他のすべてのことに関しても信頼することができることを知るのです。
私たちが試練を経験するとき、そこに試されているのは私たちがそれをどう乗りこなし、解決するかということではありません。
多くの人はそれを誤解しているように思います。
試練の中で試されているのは、私たちの信仰です。
つまり、私たちが神さまを信頼できるかどうかということなのです。
ローマ4:3 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
と書かれているアブラハムが信じたというのは、まさにこのような信仰のことです。
私たちは、神さまを信頼していますか?
試練のときには、まさにその信仰が試されるのです。
みなさんが、神さまを信頼することができますように。