創世記 24:1-9 (22-26章)創世記20 『「ゆだねる」から「自立」へ』 2024/10/06 けんたろ

創世記 24:1-9 (22-26章)
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。

前回はアブラハムの最大の試練であるイサクをささげるという話でした。
その時アブラハムが経験したのは、ひとり子であるイエス様が十字架にかけられるのを見守る父なる神さまの痛みでした。
そして、神さまへのその信頼によって、アブラハムは信仰の父と呼ばれる祝福を得たわけです。
今回は少しイサクに目を向けていきましょう。

① イサクはゆだねる信仰

モリヤでの出来事の中で、イサクに与えられていたのはイエス様としての役です。
皆さんの中には、「何も知らない小さな子どもをいけにえにしようとするなんて」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、この時イサクはすでに成人した大人でした。
諸説ありますが、この時のイサクはすでに25歳くらいの青年だったと言われています。
そう考えてみると、この出来事の印象は少し違って見えてきますね。

イサクはこれから起こることを理解することができたでしょうし、その気になればおじいさんであるアブラハムの手を振りほどいて逆らうこともできました。
しかし、イサクはそうしなかった。
イサクは父を信頼し、父が信頼している神さまを信頼したからではないかと思います。

このように、イサクの信仰はゆだねる信仰でした。
積極的に何かをするわけではありませんが、それはそれで立派な信仰ということができるでしょう。

② リベカとの出会い

24章ではイサクの嫁探しの話が入っています。
しかし、ここで活躍するのはイサク自身ではなく、アブラハムのしもべであるエリエゼルでした。
アブラハムに命じられて、しもべエリエゼルは、イサクの妻となる女性を探す旅に出たのです。
詳細はご自身で聖書を読んでいただければと思いますが、この時エリエゼルは不思議な出会いによってリベカを見つけます。

ここでもイサクは、「ゆだねる信仰」を発揮します。
すべてアブラハムとエリエゼル、そしてその背後におられる神さまの導きに身を任せ、ゆだねて待ちました。
結果として、神さまはイサクを祝福し、妻を得ることができたのです。

③ イサクの試練

やがて、その地に飢饉が起こり、イサクはこれまでいた地を離れなければならなくなりました。
アブラハムがそうだったように、イサクはエジプトに行こうとしましたが、神さまがそれを止めました。
そして、アブラハムが別の時に寄留したゲラルの地に行き、ペリシテ人の王アビメレクの地へと導かれたのです。

しかしそこで、イサクは父アブラハムと同じ失敗をします。
それは、自分の妻を妹だと偽ることです。
これは、イサクがアブラハムの人生をなぞるように生きていたことを意味します。
イサクは父アブラハムを尊敬していたし、心から信頼していました。
だからすべてにおいて、アブラハムに任せてきたし、ゆだねてきました。
そして、アブラハムの真似をしていたのです。

確かにこの場面も、そのゆだねる信仰も助けて、イサクは危機を乗り越えることができました。
リベカはイサクの妹ではなく、妻であることをアビメレクが気づき、リベカには手を出さないよう国民に指示したのです。

イサクがそうだったように、私たちも家族の信仰や、周りの人々の信仰にぶらさがり、ゆだねることによって神さまの守りを受けることがあります。
それは、神さまを信じる人々が周りにいることによって享受することができる祝福です。
しかし、やがてそれでは済まない出来事が起こります。

創世記 26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」

これまで、アブラハムの信仰によって守られていた祝福の傘が外されたような出来事でした。
この後も、ペリシテ人たちからの嫌がらせは続き、アブラハムの時代に掘られた井戸は次々と埋められていきました。
イサクはどうしたでしょう?
イサクは今までのように、ゆだねて待ってはいませんでした。
自ら井戸を掘り直し、また新たな井戸を掘りだしていったのです。
すると主はイサクのもとに表れてこのように告げました。

創世記 26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

イエス様と出会って間もないころ、あるいはクリスチャンの家族の中で育ってそのまま信仰を持ってきたとき(イサクはまさにそのケースですね)、最初は周りの人たちの信仰の傘の下で祝福を受けることがあります。
しかし、やがて自立しなければならない時が来ます。
自ら信仰の井戸を掘り、神さまとの関係を築かなければならない時が来るのです。

祝福が急になくなったように感じても驚かないでください。
これまであった護りがなくなったように感じても驚かないでください。
それは、次のステージの始まりなのです。
そしてそれを通して、私たちはもっと深く、個人的な関係を神様と築くことができるようになるのです。