エレミヤ20章(23章・26章)「苦難を喜ぶ?」-エレミヤの苦悩とメシヤ到来の希望-(エレミヤ第5回)2024/10/13 小西孝蔵
(初めに)先週見た映画「サウンド・オブ・フリーダム」、南米コロンビアを舞台にした子供の人身売買の実態を実話に基づいて描いた作品。クリスチャンのハリウッドスター、パッションの監督メルギブソンも協力、主演カビーゼルが今回も主役。「神の子は売り物ではない」がキーワード。上映まで5年かかる。私自身、10年前にワールド・ビジョンのコロンビア大会に出席。スローガン“It takes a world to end the violence against children.” を思い出す。声を大にして正しいことを訴えることは、勇気のいること。孤立無援を恐れてはいけない。今日の話に通じるものがある。
目次
振り返り
・(第1回)青年時代、エレミヤが預言者としての召命を受けた(第1章)。(第2回)、神に忠実だったヨシヤ王の宗教改革への参画(11章)。(第3回)彼の死後、エレミヤは、真逆の息子、悪玉エホヤキム王の下、偶像崇拝や不正からの悔い改めを迫る預言を行った。そのために40歳代の壮年時代約10年間で迫害を受け続けた中で、エレミヤは、自分が生まれてきたことを呪った。孤独な「悲哀の預言者」として悩みつつも、エレミヤは、主の言葉に従った(15章)。(第4回)陶器士が作る陶器のたとえで、エレミヤは、神様に反抗するユダの民が「怒りの器」として裁かれることを預言。「憐みの器」として用いてくださる神の愛に感謝(18~19章)。こうしたエレミヤの神への訴えと主の言葉とのやり取りは、本日の箇所、エレミヤ記20章まで続く。
エレミヤの神殿演説と迫害(エレミヤ20章1~4、26章1~24)
〇エレミヤ20章「1さて祭司インメルの子で、主の宮のつかさの長であったパシュルは、エレミヤがこれらの事を預言するのを聞いた。 2そしてパシュルは預言者エレミヤを打ち、主の宮にある上のベニヤミンの門の足かせにつないだ。 3その翌日パシュルがエレミヤを足かせから解き放した時、エレミヤは彼に言った、「主はあなたの名をパシュルとは呼ばないで、『恐れが周囲にある』と呼ばれる。4主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたを、あなた自身とあなたのすべての友だちに恐れを起させる者とする。彼らはあなたが見ている目の前で敵のつるぎに倒れる。・・・」
・ベンヒムノムの谷で陶器を砕いた後、エルサレムの神殿に戻ったエレミヤは、神に反抗し続けるユダの民に対し神の裁きと悔い改めを迫った。エホヤキム王の元で、祭司を務めるパシフルにエレミヤは逮捕される。その後、釈放されても、エレミヤは、神の言葉を語り続ける。
・実は、20章で書かれている神殿演説とエレミヤの逮捕の前に、もっと深刻な事態が生じていた。エレミヤ記26章は、20章の出来事の後のように書かれているが、実は20章の神殿演説より先に、26章の神殿演説が行われと解されている。26章の出来事を読むと、大変な迫害を受けて孤立無援のエレミヤの深刻な状況が読み取れる。
〇エレミヤ26章「1ユダの王ヨシヤの子エホヤキムが世を治めた初めのころ、主からこの言葉があった、 2「主はこう仰せられる、主の宮の庭に立ち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない。 ・・・ 8エレミヤが主に命じられたすべての言葉を民に告げ終った時、祭司と預言者および民はみな彼を捕えて言った、「あなたは死ななければならない。・・・20主の名によって預言した人がほかにもあった。すなわち・・・ウリヤである。・・・ 21エホヤキム王は・・・ 23ウリヤをエジプトから引き出し、エホヤキム王のもとに連れてきたので、王はつるぎをもって彼を殺し、その死体を共同墓地に捨てさせた。24しかしシャパンの子アヒカムはエレミヤを助け、民の手に渡されて殺されることのないようにした。」
・エホヤキム王の初めのころ、エレミヤは神殿に立って、悔い改めを迫る厳しい神の言葉を民に語るように神から命じられた。その通り預言すると、祭司と他の預言者たちと民はこぞってエレミヤを捕らえ、死刑にしようとした。この時は、エレミヤと同じ預言を伝えていたウリヤという預言者がエホヤキムの指図でエジプトで捕まえられて殺された。他方、エレミヤは、ヨシヤ王に仕えた書記官のアヒカムのおかげで殺害から免れた。しかし、エレミヤの苦難はこれにとどまらなかった。
・エホヤキム王の即位から数年たったころ、新バビロニア王国の力が強くなり、ネブカドネザルの率いる軍隊がカルケミシュの戦いでエジプト軍を破り、ユダを支配下に置いたが、エルサレムを完全に掌握する前に、父である国王が死んだため、本国に戻った。そのあと、エホヤキム王は、エレミヤの預言に反し、再びエジプトと同盟を結び、ネブカドネザル王に反旗を翻した(エジプトとバビロニアとの関係の年表参照)。
3.エレミヤの告白(エレミヤ20章7~15節、23章5,6節、詩編22篇1~2)
・エレミヤは、神様からバビロンに滅ぼされるという預言をそのまま伝えていたにも関わらず、帰還によって、一旦滅びからまぬかれた。祭司や預言者、民は、エレミヤの預言が外れたことを言いふらして、エレミヤをあざけった。神様にも裏切られたという思いがあった。20章の7節以下のエレミヤの嘆きの告白は、このような状況下では発せられたものと理解するとその深刻さがよくわかる。
〇エレミヤ20章「7主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。・・・わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。・・11しかし主は強い勇士のようにわたしと共におられる。それゆえ、わたしに迫りくる者はつまずき、わたしに打ち勝つことはできない。・・・14わたしの生れた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。15わたしの父に「男の子が、生れました」と告げて、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。
・エレミヤの神様に対する告白は、本日の箇所も含めて、全部で7回ほど繰り返される。前々回15章での告白と同様、エレミヤは、神様に忠実であろうとして苦難に晒された疑問を神様にぶつけた。後になって、神様の意図が分かるのだが、すぐにはわからない。神様が介入されるその時(kairos)まで、忍耐して待つことが求められる。
・私達も周囲の人たちや友人にも理解してもらえない時、こうしたエレミヤの告白に共感を覚えることがある。職場の責任ある立場で孤立無援になったとき、孤独な闘病生活を強いられている時にも通じるものがある。孤独は、神様に向き合う絶好の機会。私自身、エレミヤの厳しい状況に及ぶべくもないが、リストラや不祥事の後始末のような、人から嫌われる仕事を任されたときに、なぜ神様はこんなつらい目に会わせられるのかと神様を恨みかけた。でも、後になって神様の導きがあったことを知る。
・エレミヤが孤立無援の戦いや迫害にもめげなかったのは、ダビデの残した詩編に励まされたであろうことは容易に想像できる。第17章で詩編第1篇が引用されていたこと、エレミヤ23章でも、メシヤ到来の伏線として、ダビデの若枝について神様から示された。
〇エレミヤ23章「5主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 6その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。」
・ダビデは、詩編22篇で自分の苦難の体験をもとに、メシアとなるキリストを指し示している。エレミヤもダビデと同様、自分の苦難の人生を通じて、キリストの出現を待ち望んでいる。
〇詩編22篇「1わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。2わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。」
・預言者イザヤは、言葉で救い主(贖い主)を予表したのに対し、エレミヤは、言葉数少なく、むしろ実体験を通じてキリストの出現を預言している。
4.苦難からキリストにある喜びへ(エレミヤ20章11~13、詩編22篇22~27)
・エレミヤの告白と神の言葉は何回も交互に繰り返されているが、エレミヤの嘆きは、それでは終わらない。必ず、喜びも伴う。エレミヤ20章11、13節では、「11しかし、主は、恐ろしき勇士のように私とともにおられる」「13主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主は貧しい者の命を、悪人の手から救われたからである。」とある。」この言葉は、先ほど引用したダビデの詩編22篇の22節以下に出てくる賛美の歌と重なり合います。
〇詩編22章「22わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。23主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。・・・27地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。28国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。」
・ダビデやエレミヤがメシヤへの希望に励まされたように、私たちも、キリストを仰ぎ、自分のうちにお迎えするときに、嘆きや不安が平安と喜びに変えられる。十字架により罪の奴隷である我々の身代わりとなり、蘇られたキリストとともに新しく生きることにより、私たちの苦難は、平安と喜びに変えられる。最後にペテロ第一の手紙4章を読んで終わります。
〇1ペテロ4章「2愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、 13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」
・本日のメッセージの要旨は、パワポ資料のとおり。 (祈り)