創世記 25:22-34 創世記21『本当に求めるべきもの』 2024/10/20 けんたろ

創世記 25:22-34
25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。
25:23 すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」
25:24 月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。
25:26 その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。 
25:27 この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。
25:28 イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた。 
25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。
25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
25:33 ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

アブラハム、イサクと来て、今日からはその子供たちの話です。
イサクはリベカを妻として迎えましたが、二人の間には子供が与えられたのです。

① 兄が弟に仕える

リベカが妊娠してしばらく経つと、お腹の中で子供が激しく動き始めました、
それがあまりにも激しいので、このままではどうにかなってしまうと思ったリベカは、神さまに伺いを立てに行ったと聖書には記されています。

25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。
25:23 すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

なんと、お腹の中の子供は双子だというのです。
そして、それぞれの子孫が国になるほど増え広がり、しかし一つの国がもう一つの国より強くなり、兄が弟に仕えることになると伝えられました。
とても具体的で、この時点では分かるはずのない情報ですね。
リベカがそれをどう受け取ったのかはわかりませんが、衝撃的な内容でした。

そして出産のときになると、それが確かに双子だったことがわかりました。
毛深く野性的な長男はエサウと名付けられ、その兄を押しのけて自分が先に生まれてこようとするようにかかとをつかんで生まれてきた次男はヤコブと名付けられました。

② 長子の権利

成長したエサウは狩人になり、ヤコブは穏やかで天幕に住む人となりました。
ある日エサウがお腹を空かせて帰ってくると、ヤコブはそこでレンズ豆の煮ものを作っていました。
エサウはヤコブに、「その赤いもの(シチュー)を俺にくれ」と言いました。
するとヤコブは、「このシチューで、あなたが持っている長子の権利を売ってください」と言いました。
エサウは、すぐにその権利を売り渡してしまいました。

長子の権利とは何でしょう?
それは、文字通りイサクの長男となるための権利です。
長男は他の兄弟より多くの財産を相続することができます。
でも、彼らにとってはそれだけのものではありませんでした。
アブラハムに約束されていた特別な祝福があったからです。
それは、地の砂・空の星ほどに子孫が繁栄するという祝福、さらに子孫によって世界が祝福を受ける―つまり救い主が子孫に生まれてくるという祝福でした。
それは、確かに祝福ではありましたが、彼らの子孫が選ばれた民となるという責任が伴う約束です。

エサウはそれをシチューで売ってしまいました。
それほどの価値しか見出していなかったからです。
長子の権利という目に見えないあいまいなものではなく、今お腹を満たしてくれるシチューを選んだのです。

③ 長子の権利のためにだまし合い

それから何年も経ち、自分の死が近い事を知ったイサクは、エサウを呼び寄せて長男としての祝福を授けようとしました。
この時イサクは、みんなにその事を話すのではなく、独断的にすべてを進めてしまおうとしたのです。
一方でそれを知ったリベカは、愛するヤコブこそがその祝福を受けるべきだと考えて策略を練ります。
リベカはヤコブに、エサウの晴れ着を着せました。
そしてその首と手に子ヤギの皮をかぶせ、目の不自由なイサクを出し抜いて、ヤコブに祝福を与えさせようとしたのです。
こうしてイサクは、エサウだと思い込んでヤコブに祝福を与えてしまいました。
そしてその祝福を逃したエサウは、悔しがってヤコブを殺してやろうと恨みを持つようになりました。

兄と父をだまして長子の権利を勝ち取ったヤコブはずるいなぁと感じますね。
しかし聖書では、ヤコブの方を評価し、エサウは俗悪な者として扱っています。
私たちの感じ方とはずいぶん違うように思いますが、それはなぜなのでしょう?

第一に、ヤコブがだまし取るまでもなく、長子としての権利を手にするのは次男のヤコブであることは、最初から神さまの計画だったからです。
そのことが、生まれる前から伝えられていましたね。

第二に、ヤコブは長子の権利を何としても手に入れたいと願い、エサウはシチューで売ってしまっても構わないくらいの価値しか見出していなかったからです。

先ほども話したように、長子としての権利に伴う祝福は子孫に与えられるものであり、彼自身は見られないものでした。
そして、そこにあるのは祝福だけでなく、神に選ばれた者としての大きな責任が伴います。
何としてもそれを手にしたいと願ったヤコブの願いは、まさに信仰に根差すものだったのです。

エサウは、与えられるはずのものが与えられなかったことを悔しいと思い、激高してヤコブを殺そうとしますが、月日を経るとすっかり忘れてしまっていました。
その程度の思いだったということです。

私たちはどうでしょう?
神さまから与えられる、責任を伴う祝福を心から求め、何を犠牲にしても得たいと願うことができるでしょうか?
長子の権利をクリスチャンとしての信仰に置き換えてみると分りやすいかもしれません。
クリスチャンとしての祝福は、なってみるまでどういうものか分かりませんし、天国に行けるかどうかなんて死んでからわかることです。
それを手にするために、私たちは罪の欲望のままに生きる生活を諦めなければならない。
それでも、神さまの祝福を選ぶかどうかということなのです。

ヤコブは、よくわからない祝福より、目の前にあるものを優先にしました。
彼とその子孫は、神さまとともに歩む道を選んでいれば、長子としての権利がなくても祝福のある人生を送れたでしょうが、それよりも目先の欲を選んでしまったのです。

皆さんには、エサウの道を選んでほしくはありません。
どうか、ヤコブのように本当に求めるべきものを求めることができますように心からお祈りします。