創世記 31:1-3(31-33章)創世記23 『神の支配によって勝ち取る祝福』2024/11/9 けんたろ

創世記 31:1-3(31-33章)
31:1 ところで、ヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物で、このすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞いた。
31:2 ヤコブがラバンの態度を見ると、はたして、それは彼に対して以前のようではなかった。
31:3 【主】はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」

前回から3回目のメッセージです。
イサクの子ヤコブは双子の弟として生まれてきました。
ヤコブは、祝福を自分の手でつかみ取ろうとする性格の人物です。

生まれるときから、彼はまるで先に生まれる兄を押しのけようとするかのように、兄のかかとをつかんで生まれてきました。
その後、長子の権利をつかむために、スープで兄を買収したり、父をだまして長子の権利をつかみ取りました。

しかし、兄からは恨まれて命を狙われるようになり、ヤコブは逃げるように故郷を後にします。
ヤコブは叔父のもとで世話になりますが、そこで20年の月日を費やして家族と財産をつかみ取ることができました。

そして、神さまはヤコブにこのように伝えます。
「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」(3節)

① 「ある人」との闘い

さて、故郷に帰るヤコブには大きな課題がありました。
それは、彼の兄エサウが、まだ彼の命を狙っているのではないかということです。
エサウを恐れたヤコブは、ヤボク川のところで自分の財産や家族を3つに分け、それぞれのグループがエサウに襲われても、すべてを失わなくても済むようにしたほどでした。
それぞれのグループを行かせたヤコブは、これからヤボク川を渡ろうとする前に、唐突にある出来事が起こります。

創世記 32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

ヤコブは誰と格闘したのでしょうか?
聖書の中に明確な答えは書かれていないのですが、明らかに神さまと同じ権威を持った方であり、したがってこれはイエス様だったということがわかります。
もちろん、この時点ではイエスという名まえの人としては生まれてきていませんから、三位一体の中の子なる神であるお方ということになります。
そして、格闘の中でこのようなことが起こったと記されています。

創世記 32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。

イエス様は意外と格闘には弱かったのでしょうか?
神さまですから、何かに負けるということは本来ないはずですね。
その気になれば簡単にヤコブを倒せたでしょう。
しかし、ここではヤコブの自我がどれほど強く、負けようという意思がなかったことが表されています。
だから「その人」は、ヤコブのももの関節を打ちました。

ももの関節が外れると、普通には歩けなくなります。
それでは自分の力で戦うことができませんね。
実は、それこそヤコブに必要なものでした。
彼に必要だったのは、自分では戦うことができないという弱さだったのです。

そのような弱さを得た後も、ヤコブは「その人」を放しませんでした。
そしてこのように言います。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

そのようにして夜が明けた時、ヤコブは本当の勝利を手にしたのです。

② 本当の勝利

先ほどお話しした通り、ヤコブはこれまですべてを自分の力でつかみ取り、思い通りにしてきたという思いを持っていました。
でも、ヤコブは自分でそれを勝ち取ろうとする限り、神さまが与えようとしていた本当の祝福を得ることができていなかったのです。
足の関節が外され、ヤコブは自分の力では歩くことさえままならなくなりました。
しかし「その人」はヤコブにこう言っています。

創世記 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

ヤコブが得た勝利とは何でしょう?
それは、相手を倒した得た勝利ではありません。
足の関節が外されて自分の力で立つこともままならなくなったヤコブが、主によって与えられた勝利であり、祝福です。

それは、ヤコブに新しく与えられた「イスラエル」という呼び名にその祝福の秘密が隠されています。
イスラ・エルとは、「神が支配する」という意味の言葉なのです。

③ 神の支配の中で

私たちも、自分の思い、自分の力、自分の能力、自分のがんばりによって物事を勝ち取ろうとする、ヤコブのような生き方をしてはいないでしょうか?
私たちが自分の力によって勝利しようとし続ける限り、神さまが与えようとしている勝利、本当の祝福を手にすることはできません。
しかし、主の支配にゆだねる中で、そこに神様が勝利を勝ち取ってくださるのを知るのです。

さて、この体験の痕、ヤコブはヤボク川を渡り、故郷へと帰ってきました。
そこへ400人の仲間たちを連れたエサウが現れました。
どうして400人もつれているのでしょう?
こんな相手に襲われたら、ヤコブが連れてきた家族たちはひとたまりもありません。
財産もすべて奪われるでしょう。
一瞬緊張が走る中、ヤコブは兄エサウのもとにひれ伏しました。
すると、エサウの方も弟と会えるのを待ちわびていたように走り出し、互いを抱きしめ合ったのです。

ヤコブが今までのように、自ら勝利をつかもうとして戦っていたら、ヤコブたちはひとたまりもなかったことでしょう。
しかし主にゆだねて、主の支配にすべてを任せた時、彼は戦うことなく勝利を手にすることができたのです。
私たちも、自分の力で勝ち取ろうとするのではなく、主の支配の中にある祝福を受け取りませんか?
それは、私たちが思っている形の勝利ではないかもしれませんが、より大きな祝福が待っているはずです。