創世記 34:1-8(34章)創世記24 『正しさについて考える』 2024/11/24 けんたろ

創世記 34:1-8(34章)
34:1 レアがヤコブに産んだ娘ディナは、その土地の娘たちを訪ねようと出かけて行った。
34:2 すると、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた。
34:3 彼はヤコブの娘ディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、彼女に優しく語りかけた。
34:4 シェケムは父のハモルに言った。「この娘を私の妻にしてください。」
34:5 ヤコブは、シェケムが自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちは、そのとき、家畜を連れて野にいた。それでヤコブは、彼らが帰って来るまで黙っていた。
34:6 シェケムの父ハモルは、コブと話し合うためにやって来た。
34:7 ヤコブの息子たちは野から帰って来て、このことを聞いた。息子たちは心を痛め、激しく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥辱となることを行ったからである。このようなことは、してはならないことである。

創世記からお話を続けていますが、今回からヤコブの子どもたちへと話は移っていきます。
この箇所は、聖書を読んでいく中でも飲み込みにくく、どう考えるべきか悩む箇所です。
まずは今日の箇所の全体像についてお話ししておきたいと思います。

この出来事は、ヤコブの娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして、その土地の有力者ハモルの子シェケムによって凌辱されるという痛ましい事件から始まります。
シェケムはひどいことをしてしまったことを悔やみ、その責任を取ろうとします。
つまり、ディナを妻として迎えたいとヤコブに申し出たのです。

ヤコブの息子たちは、そこに条件を付け加えます。
それは、シェケムたち一族がヤコブたち一族と同じように割礼を受けるということです。
割礼というのは、アブラハムの子孫としてのしるしとして、男性器の包皮を切り取ることです。
そして互いの娘たちと嫁がせて、ヤコブの一族とシェケムの一族は一つの民となろうと提案したのです。
シェケムは男気を見せ、その条件をのみ、すぐに実行に移しました。

ところがシェケムの一族が割礼をほどこして痛みで苦しんでいる間に、ヤコブの息子たちはシェケムの一族を襲撃し、皆殺しにしてしまったのです。
この出来事によって、ヤコブたちはその地域の人たちから反感を買い、その土地を追われることになりました。
ヤコブと息子たちのこのような会話によってこの話は締めくくられています。

創世記 34:30 それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。私は数では劣っている。彼らが一緒に集まって私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう。」
34:31 彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」

① 難しい状況

この話を聞いて、皆さんはどのように思われたでしょうか?
これは、なかなか救いがない話だと思います。

まず、最初に被害者となったディナですが、神さまから離れ不品行であるとされていたこのカナンの地で、ひとりで異邦人の家に行くのはあまりに不用意だったのではないかとも言えます。
男ばかりの兄弟の中で、同世代の娘に会いたかった気持ちも分かるので、とてもやるせない気持ちになる部分です。

ディナに乱暴を働いたシェケムは、確かにひどいことをしたのですが、実はこの地域では結婚したい相手を手籠めにするという風習があったようです。
シェケムはちゃんと責任を果たして結婚しようとしていたわけですから、彼はこの文化の中では真っ当な青年だったのだろうと思います。
ただ、その地域の常識には当てはまらない家族に手を出してしまったというのが問題だったわけです。

ヤコブの息子たちは、アブラハムの時代からの祝福を後世に伝えていくために、異邦人たちと混ざり合わないように気を付けていました。
そのため「互いの間で娘を嫁にしよう」というハモルの申し出を受け入れることはできなかったのです。
そればかりではなく、彼らからすれば、愛する妹に乱暴を働かれたわけですから、そのような悪人に嫁がせることはできないし、その行為を許せないという気持ちがありました。
その気持ちもよくわかります。
しかし彼らは、シェケムたちの良心を利用して割礼を受けさせ、動けないところを襲撃するという卑怯な手口を使い、一族を皆殺しにしてしまうというひどいことをしまったのです。

その中で、兄弟たちの父であり長でもあるヤコブは、何も言うことができないでいました。
確かに判断が難しいことであり、何が正解とは言えないかもしれません。
みなさんがヤコブの立場にあったとしたら、皆さんならどのようにしたでしょう?

② 何が正しく何が悪いのか

この話の中にあるのは、それぞれに言い分があり、それぞれに悪いことをしたつもりはない。
むしろ「良かれと思って」したことが裏目に出て、とても残念な結果になってしまったという話です。
ここでは文化や常識、信仰の違いも問題になっていますからさらに複雑ですが、私たちも似たような体験をするのではないでしょうか。
ここまで大きな悲劇ではないかもしれませんが、誰もがこのような問題に直面するのです。

どうしてこのような問題が起こるのでしょう?
そして、そこには何が問題となっているのでしょう?
実は、私たちが自分の正しいと思うこと行い、悪いと思うことを糾弾するとき、私たちはこのような状況に陥ってしまうのです。
そこにあるのは、お互いの中にある善のぶつかり合いです。
このような状況に置かれたとき、多くの人たちがヤコブのようにどうしたらいいのかわからなくなるのが当然のことだと思います。

③ では、どうしたらいいのか

では、私たちはどうしたらいいのでしょう。
具体的な結論としては、人や状況によって違うだろうと思います。
また、時代やタイミングによっても答えは変わるかもしれません。
明確に「こうすればいいよ」とは単純に言えないのです。

ここでは二つのことを話して終わりたいと思います。
第一のことは、復讐は主のものだということです。

ローマ 12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

問題や悲劇が起こらないことが大切ではありますが、主に従う私たちが覚えておくべきことは、復讐を自分ではしないということです。
主が必ず報いてくださると信じて、自ら手を下さないようにしましょう。
感情的には簡単なことではありません。
場合によっては、相当な苦しみの中に置かれることになるでしょう。
それでも、主に信頼してゆだねることが必要になります。

第二に、私たちはいつでも主により頼んで行動するべきだということです。

箴言 3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
3:6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
3:7 自分を知恵のある者と考えるな。【主】を恐れ、悪から遠ざかれ。

何か問題があったら、あるいは何も問題が起こっていなくても、どんなときでも神さまに聞く習慣をつけてください。
正しい答えは、神さまだけが持っているものだからです。