創世記 37:1-10(37章)創世記25 『奴隷かしもべか』 2024/12/1 けんたろ
創世記 37:1-10(37章)
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。
今日から年末にかけてはヨセフの話です。
今年中に創世記を終わらせようかとも思いましたが、あまり慌てるのもよくないのであまり考えずに話を進めていきたいと思います。
① ヨセフの夢
ヨセフは、ヤコブの11番目の子でした。
ヤコブの最愛の妻、ラケルの子どもだったヨセフを、ヤコブはとても愛していました。
そのかわいがり方があまりにも露骨なので、兄弟たちはみんなヨセフを憎んでいました。
簡単に言えば嫉妬をしていたわけですが、大勢いる中の誰かを偏って愛するとき、そこにはこういう人間関係の問題が起こってしまいます。
さて、そこにダメ押しをするように、ヨセフは兄たちの前で自分が見た二つの夢について話します。
家族で畑仕事をしていると、兄弟たちが作った束が、ヨセフの束に向かって伏し拝んだというのです。
この言葉が兄弟たちの心を逆なでします。
自分がひいきされていることを分かったうえでやっていたなら、完全に嫌みですね。
さらにもうひとつ。
太陽と月と十一の星が、ヨセフを伏し拝んでいたという夢です。
太陽と月は父と母を、十一の星はヨセフの他の兄弟たちを表していることは明確でした。
兄弟たちは、傲慢で無神経なヨセフを憎み、さらにその憎しみを膨らませていきました。
② 奴隷となったヨセフ
ヨセフを憎むようになった兄たちはあることを企むようになります。
それは、ヨセフを奴隷として売り飛ばしてしまおうということでした。
ヨセフさえいなくなれば、父は俺たちを愛してくれるに違いないと思っていたのかもしれません。
とても悲しいことですね。
ある時兄弟たちはヨセフを穴に落とし、奴隷商人に銀20枚でヨセフを売りました。
そして、ヨセフが来ていた上着にお雄ヤギの血を染み込ませ、父ヤコブには「ヨセフは獣に食い殺された」と知らせたのです。
こうして、ヨセフはエジプトに売られました。
エジプトでは、ファラオの廷臣、侍従長のポティファルに仕えることになりました。
聖書の中で奴隷が出てきたときにはいくつかの捉え方のコツがありますので、少しその話をしておきたいと思います。
奴隷が意味する第一のことは、自分の自由には生きられない状態です。
奴隷は人ではなく家畜と同じような扱われ方をされますから、基本的に支配され、束縛されている状態です。
私たちは自由だと思って生きているかもしれませんが、実際には私たちの中にある罪の性質に支配され、コントロールされ、場合によっては背後に働いている悪魔によって導かれるままに生きてきた奴隷でした。
でも、イエス様によって解放され、私たちは自由になったわけです。
それが、私たちが奴隷という言葉から受け取れる第一の意味です。
奴隷が意味する第二のことは、私たちは誰かに仕えているということです。
当時の奴隷は、私たちが想像するほどひどい扱いを受けていたわけではなく、それなりの自由は許され、丁寧に扱われてもいました。
つまり、誰かに雇われて社員として働いている状態と似ています。
私たちは家畜や、あるいは電化製品のようなものだって、長持ちさせるために丁寧にあつかうのではないでしょうか?
奴隷だってもちろん同じです。
基本的には酷使して使い捨てをするようなことはしません。
ただ、社会的な立場としては底辺ではありましたから、何かあれば弱い立場にいたことは確かです。
この場合は、「奴隷」より「しもべ」とした方がわかりやすいかもしれませんね。
どちらも社会的な立場は同じですが、意味合いが大きく違います。
③ しもべとして生きる
さて、この話の中にあるヨセフの立場は、奴隷という言葉が使われていますが、どちらかと言えばしもべのニュアンスの方が近いです。
ヨセフは、確かに奴隷とされてしまったのですが、その境遇を恨んだり、やさぐれたりすることもなく、主人に忠実に従うしもべとして生きました。
やがてポティファルはヨセフを信用するようになり、その家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねるようになりました。
この時のヨセフには見習うべき部分が多くあります。
特に大切なのは、世俗的な存在である世の中の人に仕える姿勢です。
ヨセフは、実の兄たちに裏切られて奴隷として売られてしまい、一生懸命に仕えたその先でも主人の妻に陥れられました。
絶望し、自暴自棄になってしまってもおかしくないのが、ヨセフが置かれた状況です。
それでも彼は、その立場を利用して私腹を満たそうともしませんでした。
ただ、仕えるべき相手に対して、誠実に仕え続けたのです。
私たちも、世の中では奴隷のような状態で働いています。
その環境の中で、奴隷のように束縛されて不自由な生き方だと思うかもしれません。
でも、そのような環境の中で、私たちもヨセフのように生きることができるのです。
確かにヨセフは陥れられて苦しい経験もしましたが、やがてエジプトのファラオに認められ、国のすべてを任せられるような人物になっていきます。
ヨセフは、ファラオに、そしてエジプトの人々を救うために仕える者となったのです。
どうすれば、ヨセフのようになれるのでしょうか?
やらされているのではなく、自ら仕えるというのも大切なことです。
でも、私たちにとっては本来、もっと本質的な話です。
それは、私たちがイエス様によって解放されるということです。
私たちはもはや罪の奴隷ではありません。
律法の奴隷でもありません。
悪魔の奴隷でも、会社の奴隷でも、お金の奴隷でもないのです。
そんな私たちが、主のしもべとして生きること。
私たちが奴隷ではなく、しもべとして生きるための秘訣がそこにあります。
奴隷ではなく、しもべとして生きていきませんか?