エレミヤ29:1-14(27-28章)「主を呼び求める―恵みの約束と平和への祈りー」(エレミヤ第6回) 2024/12/08 小西孝蔵
目次
1. 初めにー前回の振り返り
・クリスマスが近い。ワールドビジョンでは、クリスマス募金中。その目的は?世界には、戦争、難民、飢餓が拡大。憎しみの連鎖の中で、喘いでいる人たち、子供たちに、神様の愛を分かち合うため。ウクライナ、パレスティナ、ミャンマー・・・痛ましい状況は、エレミヤの時代と変わっていない、日本も1世代前は、同じ状況だったことを思い出す。決して他人事では済まされない。
・エレミヤは、偶像崇拝と不正にまみれた政治を行い、神に従わないでエジプトと同盟を結ぼうとするエホヤキム王に対し、悔い改めて神に立ち返らなければ、バビロニアに滅ぼされると預言。このために、エレミヤは、捕らわれて、あわや殺されそうになるが、主の手によって守られる。エレミヤは、神の預言が民に受け入れられず、しかも預言が自分の期待通りに実現しないことに失望し、ついには自分の生まれてきたことさえ、呪うこともあった(20章)。それでもエレミヤは、メシヤの到来に希望を見出し、神に忠実であり続けた。
2. 第一次バビロン捕囚とハナニヤとの対決(27,28章)
・本日の聖書箇所エレミヤ27~29章の前半、27~28章は、第一次バビロン捕囚後の神の言葉と偽預言者ハナニヤとの対決が取り上げられている。エホヤキム王は、神の命令に逆らい、エジプトとの同盟を結んでバビロンに反抗したので、攻め上ってきたバビロンのネブカドネザルによってエルサレムが陥落した(第一次捕囚、前597年)。エホヤキムは、この第一次捕囚の直前に、命を失い、息子のエホヤキンがその後を継いだが、彼は3か月で捕らわれて民とともにバビロンに連れていかれた。代わりにヨシヤ王の末っ子、エホヤキムの弟であるゼデキヤが即位した。ゼデキヤもエホヤキム王と同じく神に逆らった。(年表参照)
〇エレミヤ27章「1ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤが世を治め始めたころ、この言葉が主からエレミヤに臨んだ。「綱と軛を作ってあなたの首にはめよ」。 12・・・「あなたがたは、バビロンの王のくびきを自分の首に負って、彼とその民とに仕え、そして生きなさい。 13どうしてあなたと、あなたの民とが、主がバビロンの王に仕えない国民について言われたように、つるぎと、ききんと、疫病に死んでよかろうか。」
ゼデキヤ王の治世の初めのころ、エレミヤは、イスラエルの民が首にバビロン王の軛をかけて、バビロン王に仕え、敵地で生き延びるようにという神の命令を伝えた。軛を首にかけることは、神様の実物教育の一環としてエレミヤに示されたもの。エレミヤの預言に対して、偽預言者ハナニヤは、2年以内にバビロンから民を奪還してエルサレムに帰ることができると豪語してエレミヤの軛を外して打ち砕いた。
〇エレミヤ28章「1その年、すなわちユダの王ゼデキヤの治世の初め、その第四年の五月、ギベオン出身の預言者であって、アズルの子であるハナニヤは、主の宮で祭司とすべての民の前でわたしに語って言った、 2「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、わたしはバビロンの王のくびきを砕いた。 3二年の内に、バビロンの王ネブカデネザルが、この所から取ってバビロンに携えて行った主の宮の器を、皆この所に帰らせる。
・預言者ハナニヤは、2年後にはバビロンから解放されると、王や民衆の耳障りのいいことを語って、エレミヤを攻撃した。(エレミヤ28章12~13節)「12預言者ハナニヤが預言者エレミヤの首から、くびきを離して砕いた後、しばらくして主の言葉がエレミヤに臨んだ、 13「行って、ハナニヤに告げなさい、『主はこう仰せられる、あなたは木のくびきを砕いたが、わたしはそれに替えて鉄のくびきを作ろう。』」エレミヤがハナニヤにこの神の言葉を投げかけるとたちまちにハナニヤは死んだとされる。
3. 神の国の支配と神様の計画を信じる(28章)
・以上の聖書箇所から教えられることは、「神の国の支配と神の時を信じること」。エレミヤは、バビロンの侵略をそのまま受け入れて、バビロンに捕らわれて民族ごと連れていかれるのは、神のみ心によるものであることを知らされていた。なぜなら、バビロン捕囚は、神が愛するイスラエルの民が悔い改めて神のもとに立ち返るために、バビロニア帝国やバビロン王を用いておられることをエレミヤは信じていた。
・エレミヤは、神さまの時(カイロス)は人間の時(クロノス)では測りがたいことを学び取っていた。2年でバビロンから解放されるという自分勝手な預言を行ったハナニヤには全く神様の支配や神様の時もわからなかったが、エレミヤは、神様の裁きの時と救いの時を信じてその実現を待ち続けた。
〇コヘレト3章「1天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。2生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、・・・ 」
・70年経って民が捕囚から解放されるというのは、神様のタイマーの設定なので、人間の知恵の及ぶところではない。私たちに降りかかる試練がいつ終わるのか、神様しかわからない、しかし必ず成就するという希望がある。神様の時(カイロス)を信じて忍耐強く待つしかない。
・この時のエレミヤの気持ちは、イスラエルの民の滅びと救いについての神の計画の奥深さを説いたパウロの気持ちに近いものがある。それは、神に対する確固たる信頼と民に対する限りない愛である。
〇ローマ人への手紙11章「33ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。34「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。」
4. 平和へのとりなしの祈り(29章)
〇エレミヤ29章「1これは預言者エレミヤがエルサレムから、かの捕え移された長老たち、およびネブカデネザルによってエルサレムからバビロンに捕え移された祭司と預言者ならびにすべての民に送った手紙に書きしるした言葉である。 ・・・5あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。 6妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。 7わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
・本日、朗読したエレミヤ29章では、エレミヤがバビロンに捕囚で連れていかれたユダの民に対し、このような内容の手紙を書いている。エレミヤは、民に対して、その住む場所に於いて抵抗するのではなく、町全体のために、平安・平和(ヘブライ語でシャーローム)が維持されるように祈りなさいと勧めた。敵地ではあれ、周りの住民や為政者のために平安を祈りなさい、それは、ひるがえって自分たちも平安でいられるためだとする。エレミヤとパウロは、重なることがしばしばあるが、ここでもパウロは、エレミヤ同様に、神さまの御心に従って、上に立つ者へのとりなしの祈りをしている。
〇1テモテ2章「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 2それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
・現代社会に生きる私たちも、キリストの心の痛みと憐みをもって、家族、親戚、職場、地域社会、国のリーダーたちのためにとりなしの祈りをしていくことが求められています。平和・平安のための祈りは、クリスマスにふさわしい祈りでもある。
・パウロは、キリストにある慰めによってあらゆる艱難にある人を慰めることができる(2コリント1章4節)としている。また、キリストの愛こそが人と人を結ぶきずなであり、平和をもたらすとしている。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3章14、15節)「
5. 主を呼び求める(29章)
〇エレミヤ書 29「10主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの(恵みの)約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。 11主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 12その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。 13あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。
・エレミヤは、バビロンの捕囚の民に対する手紙の後半で、民族全体の危機とも言うべき捕囚について、主が70年後には解放するという希望を民に伝えた。神様は、いつ終わるともわからない捕囚という苦難にあって、主を呼び求めなさいと民に語った。恵みの約束を果たすと主は言われる。それは、捕囚からの解放であり、平安・平和(シャーローム)をもたらすものである。
・主を求める、呼び求めるという言葉は、旧約聖書、とりわけ詩編に10回以上出てくるキーワードの一つである。主のみ名は、神様の支配、権威を象徴すると同時に、私達の親しい親子の関係性を表す言葉でもある。
〇詩編116篇「3死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。わたしは悩みと悲しみにあった。4その時わたしは主のみ名を呼んだ。「主よ、どうぞわたしをお救いください」と。・・・16主よ、わたしはあなたのしもべです。・・・あなたはわたしのなわめを解かれました。17わたしは感謝のいけにえをあなたにささげて、主のみ名を呼びます。
・悩みと苦しみにある時、「主よ、助けてください」と叫び求める。救いだされたときには「主よ感謝します」と主の名を呼ぶ。モーセに率いられた民は40年間荒野をさまよい、ほとんどの民がその間に代替わりをしたが、70年のバビロン捕囚は、それよりもはるかに長い。多くの民は、生きている間に解放されないかもしれないと望みを失うかもしれないが、それでも諦めないで祈り続けなさいとある。主に立ち返れば、御心にかなう祈りは必ず聞かれる。だから感謝してその時を待つ。
・捕囚は、物理的束縛だけでなく、罪の奴隷状態も意味する。私たちは、神から離れ、嫉妬、憎しみ、無関心という罪の呪縛から抜けられない。自分の力ではどうすることもできない。私自身も振り返るとしばしば思い知らされた(別の機会に証したい)。しかし幸いなるかな、神の愛、キリストの十字架の贖い、身代わりの死によって、対価を支払って、罪の呪縛から解放してくださった、なんという恵みであろうか。
・私たちは、どんな苦難の時でも、絶望的な状況でも、主よ助けてくださいと主のみ名を呼び求めれば主がそばに居てくださる。そこには、シャーローム、完全な平安と平和がある。自分の信仰は弱いもの、頼りにならないもの。自分の力ではどうしようもない病いや罪の呪縛から逃れない状況でも、ただ、天を仰いで、赤子のように、「主よ、御救いください」と主のみ名を呼び求めれば、天の父なる神様は、その泣き声に必ず聞いてくれる。神様から離れても、「主よ、お赦しください」と告白する。そして、神様の恵みに対して、「主よ、感謝します。」と主のみ名を呼んで感謝する。最後に、主を求めなさいというパウロの言葉を紹介して終わります。
ローマ人への手紙10章「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 13なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
(祈り)