創世記 42:1-8(42-45章)創世記27『悔い改めと赦し』 2025/01/05 けんたろ

創世記 42:1-8(42-45章)
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」
42:2 さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」
42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。
42:5 こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。
42:6 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
42:8 ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。

久しぶりに創世記に戻ってきました。
ヨセフは父ヤコブから特別の愛情を注がれていましたが、それによって兄たちの嫉妬を買うことになり、奴隷としてエジプトに売られてしまうことになりました。
ヨセフはエジプトで高官のもとで仕えましたが、高官ポティファルの妻の罠によって、牢獄に入れられてしまいました。
しかし、ファラオが見た不思議な夢を解き明かしたことによって、ヨセフは牢獄から出され、飢饉の備えをする役割を与えられたのです。
今日の箇所は、そんなヨセフのもとに兄弟たちが訪れたところから始まります。

① ヨセフの試験

兄弟たちは、ヨセフにとって自分を奴隷として売り飛ばした人々です。
ヨセフが復讐を考えたとしても不思議はありません。
幸い、ヨセフは兄弟たちに気づきましたが兄弟たちはヨセフに気づいていません。
エジプトの言葉で話す高官が、まさか奴隷として売り飛ばした自分たちの弟だとは考えもしなかったのです。

ヨセフはどうしたでしょう?
ヨセフは復讐するのではなく、兄弟たちを試しました。
彼らをスパイだと言いがかりをつけ、シメオンを人質として残し、一番下の弟であるベニヤミンを連れてくるように命じたのです。
反対する父ヤコブを説得し、兄弟たちはやっとの思いでベニヤミンを連れてきました。
すると、ヨセフは自分の銀の盃をベニヤミンの袋に隠し、ベニヤミンがその杯を盗んだと告げて捕らえようとしたのです。

ヨセフは、なぜこのようなことをしたのでしょうか?
それは、兄弟たちの心を知りたかったからです。
兄弟たちがヨセフにしたことを悔い改めて変わっていたら、彼らが自分にしたことを許すことができます。
しかし、昔のままの兄弟たちだったら、そのままで済ますことはできませんでした。

彼にとって気がかりだったのは、同じ母を持つベニヤミンの存在でした。
父ヤコブは、最愛の妻であるラケルの子であるヨセフをひいきしました。
それゆえ兄弟たちはヨセフに嫉妬して奴隷と売り飛ばしてしまったのです。
兄弟たちが変わっていなければ、同じ母を持つベニヤミンを護らなければならないと思っていたのです。

② 兄弟たちの悔い改め

結論を言うと、兄弟たちは自分たちがヨセフを売った罪を悔い改めていました。
ヨセフがベニヤミンを捕らえようとしたとき、兄弟たちはベニヤミンを見捨てることなく、ユダは自らがベニヤミンの代わりになってまで彼を救おうとしたのです。

兄弟たちが、奴隷として売り飛ばしたことを悔い改めていたことを知ったヨセフは、それを知って泣きました。

創世記 45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。

③ 悔い改めと赦し

この物語には二つの重要なことがテーマとなっています。
救いについてではなく、クリスチャンの生き方の話ですが、大切なことなのでお話ししておきますね。

一つは、赦すことの大切さです。
ヨセフは、自分を奴隷として売り飛ばした兄弟たちを赦しました。
兄弟たちはとんでもなくひどいことをしたわけですが、それでも彼らを赦したのです。
興味深いのは、ヨセフは彼らが悔い改めていなかったとしても、復讐しなかったということです。

兄弟たちが悔い改めていなかったとしたら、ベニヤミンはヨセフに連れていかれることになったでしょう。
昔のままの兄弟たちならベニヤミンは目の上のたんこぶになっていたでしょうから、それはむしろ彼らの望むところとなっていたはずです。
そのうえで、ヨセフは十分な食料を兄弟たちに与えていました。
ヨセフは彼らを見捨てなかったのです。

ヨセフが兄弟たちを赦せるようになったのは、彼自身が変えられていたからです。
奴隷としての生活の中でへりくだることを学び、それでも神さまの護ってくださっていたこと、そしてすべてが益とされていくのを体験したことが大きく影響を与えたでしょう。
だらこそ、ヨセフはこのように言えたのです。

創世記 45:5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

もう一つは、これまでの罪を悔い改めることの大切さです。
兄弟たちは、ヨセフを奴隷として売り飛ばしてしまったことを後悔し、悔い改めました。
そのきっかけとなったのは、父が悲しむ姿を見たからです。

先ほども言ったように、兄弟たちが悔い改めなかったとしても、彼らは食料を与えられました。
でも、そこまでです。
彼らは恐ろしいエジプトに戻ってくることはできず、この後まだ何年も続く飢饉を何とか生き延びなければならなかったことでしょう。
そして、家族がもう一度一つになるということもなかったはずです。

罪を悔い改めなくても、すぐには何も変わらないように思います。
悔い改めなくて済むならその方が気持ちは楽ですから、そちらに流れてしまいがちです。
でも、それによって私たちが得られなくなる祝福もまたあるのです。

皆さんにとっては、どちらが課題となりそうでしょうか?
誰かを赦すことでしょうか?
それとも自分自身の悔い改めでしょうか?
この二つは表裏一体でもあるので、どちらかではなくどちらも必要かもしれません。
一年の初め、ぜひ見直してみてはいかがでしょうか?