出エジプト 1:8-14(1:1-2:10)出エジプト1『救いの手はいつ伸ばされるのか』2025/01/24 けんたろ

出エジプト 1:8-14(1:1-2:10)
1:8 やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。
1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」
1:11 そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
1:12 しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。
1:13 それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、
1:14 漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。

今日から出エジプトのシリーズに入ります。
出エジプト記は、前回までお話ししていたヨセフの話から400年ほど後の話です。
ヨセフの時代にエジプトを支配していたのは、恐らくヒクソスという民族だったのではないかと思いますが、間もなくしてヒクソスは別の民族によって滅ぼされてしまいます。
それによって、ヒクソスの支配のもとでは優遇されていたヨセフ(アブラハム・イサク・ヤコブ)の子孫たちも、エジプト人たちの奴隷となってしまいました。

① 奴隷となったイスラエル

さて、ヨセフも奴隷となったことがありましたが、どんな風だったか覚えているでしょうか?
ヨセフは確かにエジプトの高官の所有物となりましたが、トラブルが起こるまではひどい扱いを受けることなどありませんでした。
ただ、しもべとして働いていただけですね。
しかし、出エジプトの時代の奴隷はそれとは違います。

出エジプト 1:13 それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、
1:14 漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。
1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに命じた。一人の名はシフラ、もう一人の名はプアであった。
1:16 彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」

労働を課した上に、生まれた男の子を殺したのです。
かなりひどい扱いですね。
エジプトの王はなぜこのようなことをしたのでしょうか?
それは、彼らがイスラエルを恐れていたからです。

出エジプト 1:12 しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。

このような強さは、イスラエルだけのものではありません。
クリスチャンもまた、迫害の下で増え広がってきた歴史があります。
そして、優遇されて力を持った時には、常に堕落してきたのです。
だから苦しむべきだとは言いませんが、考えさえられる話ですね。

② モーセの誕生

さて、あるレビ人(ヤコブの子レビの子孫)の夫婦が男の子を授かりました。
彼らはその子を三か月間隠して育てましたが、ついに隠し切れなくなってパピルスのかごを作ってナイル川の岸辺のしげみに隠しました。

出エジプト 2:3 しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。

てっきりナイル川に流されたのだと思っていたのですが、流されたわけではなかったのは今回初めて気づいた驚きでした。
ちなみに、この「かご」という言葉は ノアの「箱舟」と同じ言葉が使われているのだそうです。
流されたこの子にとっては、このかごは救いの舟だったのです。

そしてそのかごは、神さまの御手によってファラオの娘によって拾い上げられます。
こうして、流されたイスラエルの子は「モーセ」と名付けられ、エジプトの王族によって育てられることになりました。
このモーセが、やがてイスラエルを救い、奴隷の状態から解放する働きをすることになるわけです。

③ 救いの手はいつ伸ばされるのか

神さまはどうして400年の間、イスラエルを奴隷のままにしておいたのでしょう?
もっと早く助けてくれればいいのに。
僕たちもそう思うことはないでしょうか?

第一に、神さまはイスラエルが奴隷でいた間も助けていたということです。
だからこそイスラエルは滅びることなく生き残り、それどころか増え続けていたのです。

第二に、神さまの時が満ちる必要があったということです。
神さまのタイミングというものもあると思いますが、イスラエルが心から助けを求めた時に、モーセは登場したのです。

出エジプト 2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

救い主イエスさまが地上に来るまでに長い時間がかかったことにも同じことが言えます。
それまでの間も神さまはイスラエルを導いていたし、世界を滅ぼしつくすことはありませんでした。
そして人々の中に救い主を求める心と、神さまの時が満ちた時、イエスさまは地上に来ました。
再臨のタイミングにしても、きっと同じことが言えるでしょう。

私たちが神さまに助けを求めるとき、その助けは遅れているように感じるかもしれませんが、神さまはすでに助けての手を伸ばしています。
そして、私たちの信仰が高まり、神さまの時が満ちた時、私たちは必ず救い上げられます。
そのことを信じて、主を待ち望もうではありませんか。