出エジプト 2:11-15(2:11-3:10)『やりたいことか導きか』2025/02/01 けんたろ
出エジプト 2:11-15(2:11-3:10)
2:11 こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。
2:12 彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。
2:13 次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。
2:14 彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。
2:15 ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。
出エジプト記の2回目です。
出エジプト記は創世記の時代から400年くらい経った後、へブル人(アブラハム・イサク・ヤコブの子孫)がエジプトの奴隷として虐げられているところから始まっています。
前回のお話しで「なんやかんやあってモーセはエジプトを出ることになった」というお話をしました。
先ほど読んだ、2章の11節から14節までが「なんやかんや」あった部分ですね。
今日はお約束通り、そこからお話しを始めたいと思います。
① なんやかんや
モーセは成長し、ヘブル人の苦しみを目撃しました。
ある日、エジプト人がヘブル人を打つのを見たモーセは、そのエジプト人を殺して砂に埋めました。
次の日、ヘブル人同士が争うのを見たモーセは、彼らに「仲間を打つな」と言いました。
しかし、そのうちの一人は「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか」と言ってモーセの行動をとがめました。
このことが知られることを恐れたモーセは、ファラオから逃れ、ミディアンの地に逃げたのです。
モーセは、自分がへブル人の血筋だということを知っていましたし、彼らを救いたいと思っていました。
モーセにとって、彼らが虐げられているのを見るのはつらいことでした。
だからモーセは、打ちたたかれているへブル人を助けようとしてエジプト人を殺してしまったのです。
モーセがエジプト人を殺したのは故意だったのか、事故だったのかは書かれていません。
でも、その事実がばれていたことを知ったモーセの態度を見ると、少なくとも計画的なことではなく、他の人たちにばれると困ることだということがわかります。
だから、そのことを他のエジプト人たちも知っていると分ったとき、モーセはもうこの国にはいられないと逃げ出したのです。
こうして、モーセのへブル人を助けようという思いや計画は、あえなく挫折してしまったのです。
② ミディアンのツィポラ
モーセは、エジプトから逃げ出したミディアンの地で祭司の娘、ツィポラを妻として迎えました。
さて、ミディアンとはどんな地でしょうか?
ミディアンというのは、エジプトとイスラエルの中間くらいにある地域で、そこにはミディアン人と呼ばれる人たちがいました。
聖書の中ではサラッと書かれていますが、ミディアン人というのはイスラエルからは異邦の民族であり、後に戦うことにもなる民族でした。
しかも、ツィポラの父親レウエル(他の箇所ではイテロ)は祭司です。
これが何を意味しているのかは分からない部分もありますが、モーセの心境を想像すると、もう全てから逃げ出したい気持ちだったのかもしれないなぁと思います。
自分がイスラエルであるということも、エジプトの王家で育てられたというバックグラウンドも、彼のアイデンティティとなるものを全て捨てて、全く違う環境に身を置きたかったのかもしれません。
とは言え、そこにも神さまの御手は伸ばされていました。
逃げ出すようにして過ごしたその地での40年間も、モーセにとっては大きな意味を持つ期間だったのだと思います。
③ 燃える柴
やがて神さまの時が満ち、モーセはホレブ山で神さまと出会います。
有名な燃える柴の話ですね。
柴というのは、芝生のシバではなく、山などでよく見かける雑木ですね。
大きな木ではありませんが、細い枝をたくさん張り巡らせる小さな雑木で、燃えやすいので火を起こすときの着火のためにも使われることが多い木です。
よく燃えるので、すぐに燃え尽きるんですね。
しかし、モーセはその柴が地に根差したまま燃えるのを目にしました。
そしてその柴は、長い間見つめていても決して燃え尽きることがない不思議な火だったのです。
そして主は、柴の茂みの中からモーセに語り掛けました。
そのとき神さまは、モーセに一つのことを命じます。
出エジプト 3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
「奴隷となっているイスラエルをエジプトから導き出せ」ということだったのです。
モーセによるイスラエル救出作戦がここから始まるのですが、でも考えてみてください。
モーセは既にそれに失敗しているのです。
彼は以前から同胞であるイスラエル人を助けたいという思いを持って、彼らを助けようとして、失敗しているのです。
どうせイスラエルを助けるなら、どうしてその時に助けてくださらなかったのでしょうか?
最初の時、モーセは自分の思いで、自分のやり方でイスラエルを助けようとしました。
この時に起こり、ここから先に起こることは、神さまの計画の中で、神さまに従って行うことなのです。
これは、思っている以上に大きな違いです。
自分の思いで伝道したり、自分のやり方で善い行いをしたり…。
それは必ずしも悪いことではないかもしれませんが、そこに神様の助けはありません。
自分がやりたくてやることですから。
それなりにうまくいくこともあるかもしれませんが、うまくいかないことも少なくはありません。
でも、神さまが「今だ!」というときがあります。
その時には、私たちは神様に従って行動する必要があります。
そして、私たちはそのためにいつも神さまに耳を澄ませ、行動できる心の準備をしておく必要があると思います。
自分の思いで行動してしまい、そのため神さまが声をかけた時に動けないというのは最悪のパターンです。
善が最善の敵となるケースですね。
モーセの最初の計画はうまくいきませんでした。
うまくいったとしても、数人のイスラエル人を助けることが関の山でしょう。
しかし、神さまが命じた時には、数百万人のイスラエルが解放されました。
私たちの力と神さまの力には、それだけの差があります。
神さまの時を待ちましょう。