出エジプト 3:11-16(3:11-4:20)出エジプト3 『わたしはある』2025/02/08 けんたろ
出エジプト 3:11-16(3:11-4:20)
3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」
3:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。
イスラエルは、エジプトに400年滞在している間に奴隷となってしまいました。
奴隷として虐げられる中で、しかしモーセは神様からの使命を受け、イスラエルの開放へと導かれていきます。
今回は、燃える柴の中から語られる神さまの声を通して、モーセがその使命を受けるところですね。
早速見ていきましょう。
① 言い訳をするモーセ
「イスラエルを解放しなさい」と命じられたモーセはいろいろな言い訳をします。
モーセはすでに挫折をしていますから、本当にそこに戻りたくはなかったのだろうと思います。
第一の言い訳は、「私は神様のことをよく知らない」です。
3:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
第二の言い訳は、4章で書かれている「みんな私の言うことを信じない」です。
出エジプト 4:1 モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
第三の言い訳は、「私は口下手だ」ということです。
出エジプト 4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。
4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
「神さまのことをよく知らない」「人々は信じない」「私は口下手だ」これらはどれも、私たちがよく言いがちな言い訳でもあります。
福音を伝えるにしても、神さまの業を行うにしても、導きに従うにしても、私たちはこのような言い訳をして、なかなか神さまに従うことができないのです。
しかし、大丈夫だと神さまは言ってくださいます。
私たちが神さまに信頼して従うなら、すべての道は開かれていくのです。
② 主と共に生きる
大切なのは、私たちが神さまと共にいるかどうかだと思います。
私たちが神さまとともにいて、神さまに従って行動する限り、そこには必ず神さまが働いてくださいます。
神さまが私たちにご自身のことを教えてくださいますし、神さまがその御業を通して現れてくださいます。
私たちの問題は、神さまご自身ではなく神さまについて勉強しなければならないと感じてしまうことです。
神さまについてどれほど学んでも、それによって何かをすることはできません。
大切なのは、私たちが神さまを知り、神さまに従うということです。
そうすれば、後のことは神様がやってくださいます。
私たちは、何も心配することなどないのです。
③ わたしはある
神さまと共にいるなら、どうして私たちは心配する必要がないのでしょうか?
それは、神さまが表してくださったその本質のところでよくわかります。
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
「わたしはある」それが名まえだと神さまは言いました。
聖書の中で名まえと言うのは、その存在の本質を表すものです。
単にどのように呼ぶかというだけのことではないのです。
「わたしはある」というのは本来、言葉としてはおかしい状態です。
普通なら「わたしは〇〇である」となるはずなのですが、〇〇のところに何も入っていないわけです。
これは何を意味するかと言うと、私はこの世の全てであるということです。
「すべて」と言うと、この世にあるものになってしまいますから、厳密にはこの「すべて」さえも超越した存在です。
この世界の創造主であり、始まりであり、終わりである方。それが神さまなのです。
そのような神さまがともにいるのに、モーセは言い訳を重ねました。
「私には知識がない」「証拠がない」「能力がない」私たちもしてしまいがちなその言い訳は、神さまが共にいるなら全く意味のないものです。
神さまご自身が知識であり、証拠であり、力だからです。
そもそも、全て神さまが与えてくださるものなのであって、私たち自身の物なんて何一つありません。
だったら、私たちは何を心配する必要があるのでしょうか?
ただ神さまに信頼して、ともに歩めばいいのです。
後のことは、神さまがしてくださいます。
神さまがそのための力を与えてくださいます。
それでも神さまを信頼することができなかったモーセは、ファラオと話す役割を兄アロンに任せてしまいました。
それでも助け舟を与えてくださる神さまは本当に優しい方ではありますが、それが問題を残すことになりました。
私たちも、自分でやるべきことをしなくても、神さまが助けてはくださいますが、それは後に大きな問題に繋がります。
「わたしはある」方である神さまに信頼して、命じられたことには忠実に、神さまと共に歩んでいきたいですね。