エレミヤ31章 「新しい契約」-心に記された神の律法-(エレミヤ書第7回) 2025/02/16 小西孝蔵
1. 寮生活の想い出とエレミヤとの出会い
・登戸学寮時代、日曜集会の前半に寮生が当番で聖書の感話がする機会が設けられた。キリスト教や聖書もよくわからない若者には、とても高いハードル。私が入寮1年目に当番となり、エレミヤ書を通読せずしてエレミヤ書31章を選んだのは、無謀で、若気の至り。今回は、その後の人生の様々な試練と神様の導きを通じて、そして7回にわたるエレミヤ書の学びみよって、エレミヤ31章が、まさにエレミヤ書のハイライト、旧約と新約の接点であることを実感できた。
2. 前回の振り返りと新しい契約の預言
・神様の命令に反しエジプトに助けを求めたエホヤキムは、ネブカドネザル王率いるバビロンに滅ぼされ、多くの民がバビロンに連行された(第一次バビロン捕囚)。エホヤキム王の死後後を継いだゼデキヤ王の元で、エレミヤは、逮捕・勾留され、迫害を受け続けた(エレミヤ書32章以下)。その中で、エレミヤは、バビロンに捕らわれているユダヤの民に対し、主に立ち返って祈り求めるようにとの手紙を送った。
〇エレミヤ29章13節「 13あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 14わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
・本日の31章は、神の命令に逆らい、偶像崇拝やこの世の権力や富に頼って生きるユダヤの王、祭司や民に対し、神は、バビロン捕囚という試練を与えることにより悔い改めのチャンスを与えようとされた。その試練の時は、神様の時であり、人間の目には長く映る。捕囚からの解放は、70年間という長い忍耐の時が要した。
〇エレミヤ書31章2~3節「2主はこう言われる、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時、3主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」
・旧約の神様は、わが子を訓練するために、鞭で打たれ、怖いという印象が強いが、わが子に対して、親の元に立ち返るよう、限りない愛をもって手を差し伸べて待っておられる。
・ユダの民も私たち人間も、神様の教えを守らず、何度も反抗し続けている。神様は、わが子を限りなく愛しているが、わが子は、自分の元に戻ってこない、そのジレンマをどうして解決し得るのか? 神の義と愛をどう両立させられるのか?それが、31章31節以下に出てくる新しい契約の約束であり、やがて地上に遣わされる救い主キリストによって実現されるものである。
〇エレミヤ書31章31~34節「1主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。 32この契約は・・・エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。・・・。 33わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。・・・34・・・わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
・神様とイスラエルとの民との間のモーセの契約は、神様の命令、律法に従わない場合は、滅ぼす、神に従って戒めを守るなら救いを与えるというもの。大学の民法入門講座で教わる「双務契約」のようなもの。これに対し、新しい契約は、神様の一方的な恵みにより与えられる「片務契約」のようなもの。片務契約の典型は、贈与の契約、十字架によって完成するという意味では、遺贈の例が近いかも。
・神の律法を民のこころに記す(33節)とは、たとえて言えば、「聞くドラマ聖書」のアプリをスマホならぬ人の心にダウンロードするようなもの。あるいは、神様の声が聴ける「音声ナビ」をインストールするようなもの。
・神様は、民の不義を赦し、もはやその罪を思わないと宣言された(34節)。捕囚の民を解放するということは、罪を贖い、罪の奴隷状態から解放するという新約の約束の宣言でもある。バビロン捕囚からの解放は、第2の出エジプトといってもいい。
3. キリストによる新しい契約の実現
〇ルカによる福音書22章19~20節「19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、・・・ 20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」
・最後の晩餐の席で、キリストは、ご自分の十字架の死による贖いによる新しい契約を宣言された。聖餐式のたびに読まれる個所でもあるが、改めて、その深い意義を感じさせてくれる。キリストの十字架の十字は、縦が神と人との関係、横が人と人との関係を象徴しているといわれているが、神の義と神の愛が縦と横でクロスしたものとも解釈できる。
〇へブル人への手紙10章15~16節「15聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、16「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」
・エレミヤ31章31節以下の箇所は、へブル人への手紙8章と10章に2回引用されている。へブル人への手紙は、ユダヤ人向けにキリストの証言をしているので、キリストは、我々を罪の奴隷から贖うために、大祭司としてとりなしをしてくださった。
・パウロも新しい契約のことを次のように証言している。私たちの努力によって神様の戒め、命令を守ろうとしても無理。復活されたイエス様が一人一人に使わしてくださる聖霊の働きによって神の律法を守れるようにしてくださった。
〇第2コリント3章3節、6節「3あなたがたは自分自身が、・・・キリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものである。・・・ 6神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。」
・新しい契約が旧約に置き換わった。しかし、律法順守を求める旧約が意味のないものになったかというとそうではない。文字に記されたモーセの律法は破棄されても、神の律法は無効になることなく、私たちのこころに生き続ける。「律法は、私たちをキリストに導く養育係(パイダゴーコス)となった」(ガラテヤ書4章24節)。このことは、私の学生時代過ごしたキリスト教学生寮での経験したことでもある。
4. 旧約から新約への拙い信仰体験
・登戸学寮に入寮した年は、学生運動が全国の大学で激しくなり、東大の入学試験が中止になった年の翌年。寮内も、寮長派と反寮長派に2分、体制派と反体制派の対立構造に類似。私は、寮長の意向を受けて、日曜礼拝、朝拝(朝祷会)の順守を呼びかけていたところが、反寮長派の隣の部屋の寮生から首を殴られ、1週間の打撲傷を負った。私は、じっと我慢したが、何でこんな目に会わなくてはならないのか、わからなくなった。自分の正義感が人を裁く結果になったことに落胆。
・その後、将来、えん罪事件を糺す弁護士になりたいという夢も挫折に至った。周囲の人々と比較して能力のなさ、劣等感や嫉妬心を感じるようになり、1年近くDepression(鬱症) に陥った。そして、別のキリスト教学生寮(同志会)に移った時に与えられたみ言葉が次の箇所。
〇ローマ人への手紙3章23~24節「23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
・クリスチャンの先輩や先生に出会い、旧約の律法主義的生き方による罪の束縛から解放され、神様の愛、福音の恵みをただ受けるだけでいいという平安が与えられた。キリストの贖いによって義としてくださる新しい契約の恩恵にあずかった。私にとって、こうした同志会での信仰体験が与えらえたのは、私の養育係になってくれた登戸学寮での辛い体験があったからこそと思い、今では感謝している。その後も、自分の力に頼ろうとする自分と御霊の働きに委ねようとする自分との間を揺れ動いてきたが、いつも「あなたのなすところ主(聖霊)に委ねよ、そうすれば、あなたのはかりごとは堅く立つ」(箴言16章3節)という言葉に立ち戻る。
5. 神の愛と隣人愛
・イスラエルの民に与えられたモーセの律法(十戒に始まり、360にも及ぶおきてに)がキリストを通じて一つの戒めにまとめられた。それは、新しい契約のエッセンスともいうべき次の言葉。ヨハネ13章34節「34わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」
・私たちの中には、完全な愛は存在しないが、神様の愛は、無償の愛である。「16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
・この神の愛、キリストの無償の愛(アガペー)によって、自分中心の私たちの心が愛の存在に変えていただける。キリストの愛に動かされて、人のために働くことができる、神と人とに仕えることができる。何という大きな恵みではないでしょうか。最後に、エレミヤ31章の冒頭の限りない神の愛と詩編の感謝の歌を読んで終わりたい。
〇エレミヤ31章3節「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」
〇詩編136篇9節「主に感謝せよ。主は惠深く、その慈しみは、とこしえに絶えることがない」 (祈り)