出エジプト 7:1-5(6:2-11:10)出エジプト5 『誰が主かを知る』 2025/03/02 けんたろ

出エジプト 7:1-5(6:2-11:10)
7:1 【主】はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。
7:2 あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。
7:3 わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。
7:4 しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。そこで、わたしはエジプトに手を下し、大いなるさばきによって、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す。
7:5 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが【主】であることを知る。」

出エジプトを読み進めていますが、今日は一気に進みます。
前回少し話題に出てきた10の災いについてですね。
過ぎ越に関しては次回もう少し具体的にお話ししますが、今回そのすべてのいっぺんにお話ししていきたいと思います。

さて、イスラエルを解放するようにファラオと話したモーセとアロンでしたが、ファラオは頑なになってイスラエルを去らせようとはしませんでした。
それによって、エジプトは10の災いに見舞われることになります。

① 十の災い

十の災いの内訳は次の通りです。
1:ナイルの水が血に変わる(7:17~25)
2:かえる(8:2~14)
3:ぶよ(8:16~19)
4:あぶ(8:21~24)
5:家畜の疫病(9:2~7)
6:腫物(9:8~11)
7:雹(9:22~33)
8:いなご(10:4~15)
9:闇(10:21~23)
10:初子が死ぬ(11:1~12:30)

エジプトは、どうしてこのような災いを経験する必要があったのでしょうか?
その理由は、今日の箇所の中に一言で記されています。

7:5 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが【主】であることを知る。」

頑ななファラオとエジプトの人々が、大きな労働力であるイスラエルを解放するためには、イスラエルをむしろ追い出したいと思うほどの恐れを抱く必要がありました。
そしてそれは、エジプトの人々にとって誰が神なのかを知るための経験でもあったのです。

災いが起こったナイル、かえる、ぶよやあぶ、疫病などは、それぞれエジプトにあがめられている偶像の神々でもありました。
ファラオは神々の代表でもありましたから、本来はこれらすべての災いを起こすのはファラオであり、全てコントロールできるはずのことだったのです。
しかし、ファラオはそれらの災いを止めることができませんでした。
そのことを通して、エジプト中の人々とファラオ自身が、イスラエルとともにいる神こそが本当の神だと知ることになったのです。

② イスラエルも神を知る

しかし、この出来事はエジプトが神さまを知るということだけではなかったと思います。
これは、イスラエルの人々にとっても、誰が主かを知るための機会だったのではないでしょうか。

実際、エジプトの人々以上に、イスラエルこそが神を知る必要があったのだと思います。
奴隷として支配され、虐げられてきた数百年を過ごしたイスラエルは、完全に奴隷マインドとなっていました。
彼らとともにいる神がどのような方なのかを知ることは、イスラエルが肉体的に奴隷から解放されるためだけでなく、精神的に解放されるためにも必要な出来事だったのです。

数百年を奴隷として過ごし、数百万人にも上る労働力となったイスラエルは、自分たちが解放されることなんて絶対にありえないと思っていたことでしょう。
事実、人間的にはそれは不可能な出来事でした。
しかし、そこに神様が介入したとき、不可能は可能になるのです。
なぜなら、主こそ神だからです。

私たちも、長い間罪の奴隷として生きてきました。
いろいろなことかに縛られて生きている私たちは、自分が解放されることなんてありえないと心のどこかで思っているかもしれません。
私たちも、いつの間にか奴隷マインドに支配されてしまっているのです。

私たちもまた、このマインドから解放される必要があります。
主に不可能はないと、私たちは信じているでしょうか?
神さまがすべての物から解放してくださることを信じているでしょうか?
私たちもまた、ここにあるような十の災いを体験しなければならないのかもしれませんね。

③ 私の主は誰か

皆さんは、誰が主だと思っていますか?
いつの間にか、私たちはお金が私たちの主だと思ってしまっていないでしょうか?
健康や病気を主だと思っていないでしょうか?
地位や立場を主にしてしまっていないでしょうか?
会社や、上司が主だと思っていないでしょうか?
世間の人々の目が主になってしまっていないでしょうか?
あるいは、自分の感情や価値観が主になっていませんか?

私たちは、いろんなものを主だと思ってしまいます。
場合によっては、自ら奴隷となって支配されることを求めてしまいます。
でも、私たちの主は、天地を創造した神さま、目に見える方として地上に来てくださった御子イエス、そして私たちのうちに住んでくださる聖霊の、三位一体の神様だけだということを覚えておく必要があります。

私たちはいつまでも頑なのままでいるなら、エジプトが経験しなければならなかったように十の災いを経験することになるかもしれません。
しかし、それもまた私たちのために与えられた機会として受け取ることができます。
私たちが主こそ神だと心から理解し、受け入れることができた時、私たちは本当の意味で罪の奴隷状態から解放され、自由に生きることができるようになるのです。