出エジプト 12:1-7(12:1-51)出エジプト6 『過ぎ越しが意味すること』2025/03/08 けんたろ
出エジプト 12:1-7(12:1-51)
12:1 【主】はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
12:3 イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。
12:4 もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
12:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
今日は、前回お話しした十の災いの最後、初子の死のところに焦点を当ててお話ししていきたいと思います。
ここは、イスラエルにとっても、私たちにとっても大切な部分なので、じっくりお話しする必要があると思いました。
① イスラエルの始まり
イスラエルがどこから始まったのかということに関しては、いろんなポイントがあります。
例えば、神さまがアブラハムに語り掛けてからが始まりとも言えるし、その孫であるヤコブにイスラエルという名まえが与えられた時から始まったとも言えます。
でも、この過ぎ越も、イスラエルの始まりと言えるポイントの一つなのです。
神さまはアロンにこのように伝えました。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
つまり、イスラエルの暦はここから始まるということです。
とは言ってもこの日が始まりの日というわけではなく、この月の10日に羊を用意ssいて、14日まで見守り、15日に屠ります。
この月は第一の月とか、アビブ、あるいはバビロン語でニサンと呼ばれています。
現代の暦でいうと、3~4月ですね。
イスラエルは、今もその日を過ぎ越しの祭り(ペサハ)として祝っています。
② 聖書の神さまは残酷か
神さまは、この日に屠った羊の血を、それぞれの家の門柱と鴨居に塗るように言われ、イスラエルの人々はそれに従いました。
するとその夜、主がエジプトの地をめぐり、エジプトの全ての神々にさばきを下しました。
その日、エジプト中の家々で、激しく泣き叫ぶ声が起こりました。
エジプトの地の全ての初子が、ファラオの子から家畜に至るまで死にました。
しかし、門柱と鴨居に血を塗った家だけは、主がその家を過ぎ越した(つまり通らなかった)ので、誰も死ぬことはなかったのです。
さて、この出来事を通して皆さんは何を思い、どのように感じたでしょうか?
この出来事に直面したエジプトの人々の心に起こったのは、神に対する恐れだったと思います。
もしかすると、「おそれ」という言葉では足りないかもしれない。
もはや、恐怖に近い思いだったのではないでしょうか?
ある人たちは、これを通して「聖書の神さまはなんて残酷なんだ」と言います。
神は愛であるはずなのに、旧約の神さまは怖いという話もよく耳にします。
気持ちは分からなくもないのですが、それは私たちや、この世界がどのようなものなのかという前提を忘れているのではないかと思います。
そもそも私たちは神様に背いた罪人であり、そのために歪んで壊れてしまった世界に私たちは生きています。
神さまが創造した素晴らしい存在を、私たち自身が壊してしまったということです。
神さまはその瞬間にすべてを滅ぼしてしまっていたとしても、私たちには何の文句も言えなかったはずです。
それなのに、滅ぼされることなく今もこうして存在していることそれ自体が愛です。
そして、そんな私たちのために命をかけて、私たちの本来の姿を取り戻させてくださる。
それこそが、神さまの愛であり、憐みだということを、私たちは忘れてはいけないと思います。
自己中で、傲慢で、争ってばかりいて、自分の利益を優先にして、モンクや悪口ばかり言っている私たち。
病気や災害が起こり、食べることにも困り、暑さや寒さで死者が出てしまうこの世界。
その世界や私たちは、神さまが通り過ぎるだけで滅んでしまうものなのです。
でも、屠られた羊の血を塗られた家を神さまは過ぎ越し、裁きを下さない。
それは、イエスさまが私たちのために流してくださる十字架での血を表しています。
イエスさまを受け入れるなら、私たちの魂の門柱と鴨居にはイエスさまの血が塗られ、私たちは神様の裁きを過ぎ越すことができるのです。
③ ゴールではなくスタート
興味深いのは、救われる条件がイスラエル人かエジプト人かではなく、言われたとおりに行うかどうかによって決まるということです。
イスラエル人であっても、言われたとおりにしていなかったら救いがなかったし、エジプト人でも言うとおりにしていたら過ぎ越していたということです。
人種とか、行いとか、性格とかによって救いが変わらないというのは、私たちにとっては大きな希望です。
私たちがどんな性格だろうと、どんな人生を送ってきて、どんな過去を持っていようと、私たちがイエスさまの十字架を受け入れ、主と共に歩み始めるなら、私たちはそこにある救いを受け取ることができるのです。
逆に言えば、どれだけ良い人であり、まじめで犯罪歴がなかろうと、イエスさまではなくこの世界を選ぶなら、神が過ぎ越すことはないというシビアな世界でもあります。
罪人であり、壊れて歪んでしまった世界に生きている私たちの良さやまじめさでは、神さまが創造した本来の姿からは程遠いということです。
最後にもう一つ、覚えていておいてほしいことがあります。
過ぎ越しは、スタートであってゴールではないということです。
エジプトでの奴隷状態からは解放されましたが、約束の地にはまだ着いていません。
約束の地は、神の国を表しているのではないかと僕は考えています。
神の国についてはイエスさまが福音書で繰り返しお話ししていますね。
そこには神の支配があり、神さまが創造した本来の私たちの姿がそこにあることでしょう。
私たちは、生きている間それぞれに、そのような神の国に入る道のりを歩んでいくのです。
何百万人もいるイスラエルのうち、ヨシュアだけしか入れなかったことを考えると、生きたまま神の国に入ることは簡単なことではないようです。
しかし、私たちは少しずつでもそこに近づくことができるのだということを忘れないでいてほしいのです。